産経WEST

【戦後71年 楠木正成考<第1部>】多聞誕生(2)「公」を忘れた日本人へ 祖父の代、駿河から河内に

産経WEST 産経WEST

記事詳細

更新

【戦後71年 楠木正成考<第1部>】
多聞誕生(2)「公」を忘れた日本人へ 祖父の代、駿河から河内に

正成を祭る湊川神社。菊水紋がいたる所で見られる=神戸市中央区(恵守乾撮影) 正成を祭る湊川神社。菊水紋がいたる所で見られる=神戸市中央区(恵守乾撮影)

 楠木の根は鎌倉にあるというのに、その枝を切ろうと幕軍はどうして戦に出ていくのか-。そう皮肉る狂歌は当時の都人が、楠木氏がもともと鎌倉側の武士と知っていたことを示している。

 「最近の研究では、楠木氏の故郷は河内から遠く離れた駿河国(静岡県)の入江荘楠木村にあったと考えられています」

 そう話すのは『楠木正成』(吉川弘文館)の著者で、独協大の新井孝重教授である。

 「ここと河内はともに北条得宗家(執権家)の支配下にあり、観心寺荘を領地化した際、楠木村の得宗被官だった楠木氏が、代官として入ったのではないでしょうか」

                   ◇  

 観心寺荘の地頭だった安達氏が滅ぼされたのは弘安8(1285)年である。得宗家の新たな領地に組みこまれ、楠木氏が移ったのはその後と考えられる。さらに10年後の永仁3(1295)年、東大寺領播磨大部荘に乱入した楠河内入道という人物が、東大寺文書に登場する。これを正成の父か叔父とする説もある。その前年の永仁2年は、正成が誕生したとされる年だ。

 「河内には楠木という地名はない。だから土地を基盤にして名乗りにする鎌倉武士らしい武士ではなく、銭の力で家人や土地の者を動かす武士だったのでしょう」

 楠木氏の菩提寺、観心寺の永島龍弘長老はそう話す。

 「正成の地盤の一つ、赤坂は朱(水銀)の産地で、交通の便もよい。その立地条件のもとで力を付けた家だったと思います」

 楠木氏は、正成の祖父の代に駿河から河内に入り、財を成した-。執権政治や荘園制度がほころび、流通や商業が力を持つ時代の申し子が、新たな武士・正成だったのである。

                   ◇

 ◆家紋は菊水、橘氏の末裔説も

 河内を地盤とする豪族とされ、家紋は流水に菊花が浮かぶ「菊水」。伊予橘氏や名門・橘氏の末裔とする文献もあるが、鎌倉時代末期に活躍した正成(1294~1336年)以前のことはよくわからない。

 正成は4人兄弟といわれ、湊川で一緒に自刃した弟、正季が有名。嫡子の正行も最後まで足利軍と戦って討ち死にし、正成が大楠公と言われるのに対し、正行は小楠公と呼ばれる。楠木氏一族の多くが南朝方についたため長く「朝敵」とされたが、永禄2(1559)年、正親町(おおぎまち)天皇によって赦免された。

このニュースの写真

  • 多聞誕生(2)「公」を忘れた日本人へ 祖父の代、駿河から河内に

関連ニュース

【戦後71年 楠木正成考<第1部>】多聞誕生(1)「公」を忘れた日本人へ 貫いた忠義と仁、失われた「心」戦後日本を象徴

「産経WEST」のランキング