産経WEST

【戦後71年 楠木正成考<第2部>】武士から武将へ(2)「公」を忘れた日本人へ 名軍師の礎築いた学びの道

産経WEST 産経WEST

記事詳細

更新

【戦後71年 楠木正成考<第2部>】
武士から武将へ(2)「公」を忘れた日本人へ 名軍師の礎築いた学びの道

伝大江時親邸跡に残るしだれ桜。正成手植えと伝わる=大阪府河内長野市(恵守乾撮影) 伝大江時親邸跡に残るしだれ桜。正成手植えと伝わる=大阪府河内長野市(恵守乾撮影)

  南海高野線三日市町駅(大阪府河内長野市)から約4キロ。一面のススキ風景で有名な岩湧山(いわわきさん)に向かう途中に府指定文化財「伝大江時親(ときちか)邸跡」がある。平安時代の歌人、大江匡房(まさふさ)の子孫で安芸毛利氏の祖となった時親の屋敷跡と伝わる民家である。

 「楠木正成は父の勧めでここで、時親に兵法を教わったと伝わっています。正成は観心寺から馬で通ったようです」

 現当主の大江禧昭(よしあき)氏はそう話す。観心寺からの道のりは約8キロ。少年時代の正成は数年間、一日も休まず通ったという。当時、正成が渡った橋跡も伝えられ、「楠公通学橋」という交差点名になっている。

 「匡房は漢学者でもあって、中国兵書を管理する家の人でした。源義家に『あなたは戦は強いが、兵法を知らぬ』と諭し、教授したという逸話があります」

 時親は匡房の6代あと。「兵書を伝え持っていたはずで、『孫子』などとともに教えたと思います」

 「時親は、屋敷跡がある河内・加賀田郷の地頭職ですが、同時に六波羅探題の評定衆でした。鎌倉幕府の重職者で在京人ですから、正成が接点を持つとしたら御家人・被官仲間としてとしか考えられない」

 河内長野市郷土研究会の椋本(むくもと)進会長はそう話す。時親の3代前は大江広元。源頼朝の側近で、幕府の政所の初代別当(長官)を務めた人だ。その家柄から考えれば、加賀田に隠棲(いんせい)し、正成に兵法を教えたとは考えにくいという。

 「でも、正成が名軍師だったことは間違いない。峠越えした敵を挟み撃ちにしたり、敵の補給路をねらったり。大軍を京に入れて出入り口を塞ぐ戦術を考案したことも、並みの武士にできることではない」

 椋本会長が注目するのは交通の要衝・河内の千早赤阪を本拠とした地の利である。東は大和、西は和泉につながり、木材を中心とする物資の大動脈だった。

 「当然、さまざまな情報も入るはずで、播磨の赤松氏など戦上手の話が相当、蓄積されていたでしょう」

 正成の戦上手は、耳学問によるところが相当大きかったのでは、という指摘である。

続きを読む

関連ニュース

【戦後71年 楠木正成考<第1部>】多聞誕生(1)「公」を忘れた日本人へ 貫いた忠義と仁、失われた「心」戦後日本を象徴

「産経WEST」のランキング