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【戦後71年 楠木正成考<第1部>】多聞誕生(1)「公」を忘れた日本人へ 貫いた忠義と仁、失われた「心」戦後日本を象徴

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【戦後71年 楠木正成考<第1部>】
多聞誕生(1)「公」を忘れた日本人へ 貫いた忠義と仁、失われた「心」戦後日本を象徴

金剛山(手前)方面から眺める神戸・湊川方向。正成はこの畿内で活躍した=奈良県御所市(本社ヘリから、恵守乾撮影) 金剛山(手前)方面から眺める神戸・湊川方向。正成はこの畿内で活躍した=奈良県御所市(本社ヘリから、恵守乾撮影)

 「経済のことばかりを考え、心のことを言わなくなった戦後日本を象徴しているようで、非常に残念なことだと思っています」

                   ◇

 〈南河内赤坂の水分山の井、楠館にて生誕。幼名を多聞と言ふ〉

 正成について、太平記はそう書く。永仁2(1294)年のことだ。後醍醐天皇のお召しに応じて下赤坂城で挙兵したのは元弘元(1331)年、正成が数え38歳の年である。   

 下赤坂城が幕軍に落とされ、後醍醐天皇が隠岐に流されてからは千早城に拠(よ)って戦いを続けた。正成の奮戦で幕軍に離反が相次ぎ、幕府が滅んで建武の中興が成ったのは挙兵から3年後のことだ。

 しかし、2年もたたないうちに足利尊氏が背き、正成は尊氏の大軍との戦に心を砕く。九州から京を目指す尊氏と摂津・湊川で戦い、激戦の末に弟・正季と刺し違えて自刃したのは延元元(1336)年である。正成43歳。

 「七生滅賊」

 7度生まれ変わって賊軍を討ちたいと正季は言い、正成は笑って応じたと伝承される。

 「だから忠義、正義の人といわれるが、私は仁の人だったと考えています。部下にも敵にも思いやりのあった人ですね」

 境内に墓所があり、正成を祭神とする湊川神社(神戸市中央区)の垣田宗彦宮司はそう話す。正成は新政府の官職に就いていた41歳の時、激戦地だった赤坂に身方塚、寄手塚を築いて敵味方の別なく戦死者を弔っている。

 「尊氏は家の繁栄と武運長久を願う、当時当たり前の武将ですが、楠公さん(正成)は天下の静謐(せいひつ)や平和を願う、一歩進んだ人だったと思います」

                   ◇

 後世、正成の末裔(まつえい)を名乗って天下人を恐れさせ、重用された人が2人いる。1人は、伊勢・北畠氏に仕えて織田信長と戦った楠木正具。一志郡八田城にわずか700人の手勢で籠もり、織田の将、滝川一益の南進を食い止めた。

 「げに伊勢の楠(木)こそ、いくさにかけては鬼神よ」

 信長はそう言って、攻撃の将を羽柴秀吉に代えたと伝わる。

 正具は北畠氏の降伏後も伊勢・長島、摂津・石山で織田勢と戦い、61歳で戦死したと記録される。

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