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【渡部裕明の奇人礼讃】武田信広(上)戦国時代に北海道を制覇した「謎の武将」

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【渡部裕明の奇人礼讃】
武田信広(上)戦国時代に北海道を制覇した「謎の武将」

松前城跡。武田信広から4代目の松前慶広(よしひろ)が、慶長11(1606)年に築城した=北海道松前町松城 松前城跡。武田信広から4代目の松前慶広(よしひろ)が、慶長11(1606)年に築城した=北海道松前町松城

 その羽賀寺に残された古文書「羽賀寺縁起」(国重文)に、次のようなことが書かれている。室町時代の永享8(1436)年、奥州十三湊日之本将軍、安倍康季(やすのり)が寺の修復費用を提供したという内容である。約800キロメートルも離れたこの地に、安藤氏は大きな影響力を及ぼしていたのだ。

 ところが、安藤氏も室町時代後期になると、次第に力を失っていった。岩手県から青森県の一部までを治める南部氏との抗争や、一族同士の内紛が原因だったといわれている。そうした混乱に乗じて蝦夷地の覇権を握るべく立ち上がったのが、わが武田信広だった。

 その一方で、信広の生い立ちは謎に包まれている。彼の子孫はのちに、北海道唯一の藩・松前(まつまえ)藩主の松前氏を名乗るのだが、江戸時代初期に書かれた「新羅之記録(しんらのきろく)」という歴史書にしか、信広はその名をとどめないのだ。

 新羅之記録には、信広は若狭国の守護・武田信賢(のぶかた、1420~71年)の三男で、一族の内紛を避けて若狭を出奔し、蝦夷地にやってきたと書かれている。若狭武田家は清和源氏につながる名門だが、信広という人物の存在は、信頼できる系図(尊卑分脈=そんぴぶんみゃく)からも確認できない。

 ●下北出身の土豪だった?

 「新羅之記録によれば、信広は1431年の生まれです。父の信賢が11歳のときの子供になるわけで、ちょっと考えにくい。名門の出にするため、松前氏が創り出した系図だと私は考えています」

 「北海道戦国史と松前氏」(洋泉社)の著者、新藤透・山形県立米沢女子短大准教授(日本近世史)は言う。新藤准教授が唱えるのは、下北半島にある蠣崎(かきざき)の土豪出身という説だ。

 「15世紀半ば、下北半島に蠣崎蔵人信純(くろうどのぶすみ)という武将がいたことが後世の史料に出てきます。彼は南部氏に反抗して立ち上がるのですが、長禄元(1457)年、敗れてしまいます。そこで蝦夷地に逃れ、武田信広となったと考えているんです」

 何と大胆な説だろう。だが、蝦夷地は本州での抗争に敗れた人間が再起を図る土地だったことは、先にも述べた。魅力的な推論と言っていい。

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