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【関西の議論】「八咫烏」が日本サッカーのシンボルになった理由 和歌山出身の高等師範学生が普及に注いだ情熱

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【関西の議論】
「八咫烏」が日本サッカーのシンボルになった理由 和歌山出身の高等師範学生が普及に注いだ情熱

サッカー女子日本代表のユニホームの胸には3本足の「八咫烏」が=カナダ・バンクーバーでの2015W杯で(左からDF熊谷紗希、MF宮間あや、FW大儀見優季)

 日本サッカー協会のシンボルマークで、日本代表チームのユニホームにも描かれている3本足の「八咫烏(やたがらす)」は、勝利を導く守り神としてサッカーファンにはおなじみだ。ではなぜ日本神話に登場し、和歌山の熊野地方で信仰される八咫烏が日本サッカーの象徴となったのか。そこには、和歌山出身で日本にサッカーを本格的に紹介した明治の指導者、中村覚之助(1878~1906年)の存在があったとされる。覚之助と日本サッカーの歴史をひもといてみた。(小泉一敏)

戦前から八咫烏がシンボル

 八咫烏は日本神話で神武天皇が日向(宮崎県)から橿原神宮(奈良県)へ向かう神武東征の際、山深い熊野を案内する役割を担ったとされている。熊野那智大社(和歌山県那智勝浦町)と熊野本宮大社(同県田辺市)、熊野速玉大社(同県新宮市)の熊野三山に祭られ、今では日本サッカー協会の関係者がW杯の前などに参拝し日本代表の必勝を祈願するなど、八咫烏を縁にした交流が続いている。

 大正10(1921)年に大日本蹴球(しゅうきゅう)協会として設立された日本サッカー協会は昭和6年から、八咫烏をシンボルマークとして使用している。これは協会創設などに尽力した漢学者、内野台嶺(たいれい)(1884~1953年)の発案だったといわれる。

 その理由ははっきりしないが、日本サッカーの生みの親といわれる覚之助が内野の東京高等師範学校(現筑波大学)の先輩で、那智勝浦町(当時の那智町)の出身だったことから、覚之助の功績をたたえる意味でゆかりの地のものを採用したのではないか、とも考えられている。

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