誰が龍馬を殺したのか、黒幕は…歴史作家・桐野作人氏が「真相」に迫る

龍馬暗殺150年
近江屋での暗殺から今年で150年。謎の残る坂本龍馬暗殺をめぐり、今も数々の黒幕説がある(高知県立坂本龍馬記念館提供)

 幕末の志士、坂本龍馬と中岡慎太郎が京都・近江屋で暗殺されてから今年で150年。龍馬の生誕地である高知市で、このほど県立坂本龍馬記念館主催のシンポジウムが行われ、今なお諸説がある暗殺者と黒幕について、歴史作家、桐野作人(きりの・さくじん)氏が独自の切り口から、「謎」に迫った。維新前夜の当時はどんな状況で、各勢力はどう対峙していたのか。桐野氏の講演内容を歴史解説も交えて紹介する。

龍馬暗殺に4つの説

 〈まず、龍馬暗殺の黒幕説について整理しておく。主に次の4つの説がある。

 (1)土佐藩説=龍馬の活躍を快く思わない藩士という説をはじめ、(幕府から朝廷に政権を返す)大政奉還の功績(土佐藩の前藩主・山内豊信を説得し、大政奉還を建白させた)で名をあげた家老、後藤象二郎が、大政奉還が龍馬のアイデアだったことを隠すために殺害した-などの説がある。

 (2)薩摩藩説=武力で徳川幕府を討ちたかった薩摩藩としては、龍馬による大政奉還という平和的手段は、徳川の勢力を残す不本意なものであり、「龍馬は裏切り者」とみなして暗殺に至ったとする説。「(文献などから、仲がかなり良かったとされる)西郷隆盛が黒幕」という説まである。

 (3)紀州藩説=龍馬率いる海援隊の「いろは丸」と紀州藩の船が衝突した事故で、龍馬は沈没したいろは丸の賠償金を紀州藩に支払わせた。「御三家が下級武士に負け、恥をかかされた」とする紀州藩が、これを恨んで犯行に至ったという説。実際に海援隊は紀州藩を疑い、行動を起こしている。

 (4)幕府説=実行犯そのものが京都の警備にあたっていた(幕府の組織である)京都見廻組か新選組という説が根強いことから、この説が有力とされる。特に京都見廻組だった今井信郎や渡辺篤が証言や記録で「自分たちが襲った」としており、新選組より京都見廻組の方が有力視されている。ただ暗殺に参加した人数など共通点があるものの、今井が後に証言を修正したり、現場の状況と矛盾する点などがあるとして、信憑性について賛否両論があるのも事実。現場に新選組隊士の遺留品があったとして新選組も疑われているが、こちらも決定的証拠ではないという。

 ほかにも、龍馬とともに亡くなった中岡慎太郎犯人説や、そもそも暗殺場所が近江屋ではないとする説などさまざま。万人を納得させる決定的な証拠・証言がないことだけでなく、龍馬に敵が多かったことや、政局が混乱した幕末期だけに親しい人間による裏切り行為も否定できない時代背景が複雑に絡む。

 桐野氏の講演はこれらを踏まえた上で進んだ〉

新選組にも尾行された「危険人物」

 桐野氏「龍馬暗殺を考える上で、当時の緊迫していた京都の政局を理解する必要がある。龍馬が幕府側に監視されるきっかけは、文久3(1863)年8月18日の政変で、(会津藩などの公武合体派によって、尊王攘夷派である)長州藩が京都から追放された。さらに翌年の禁門の変(京都での復権を目指し出兵した長州藩士が、会津藩などによって制圧された)によって、長州藩は朝敵となった。当然(長州藩に)加担した人間が京都に入れば指名手配され、殺害される状況にあり、龍馬もその例外ではなかった」

 「龍馬は暗殺される慶応3(1867)年までの4年間で8回、上京(京都入り)しているが、元治元(1864)年6月にあった池田屋事件の直後、(龍馬の隠れ家だった)京都の下宿先が(幕府方に)踏み込まれている。龍馬はたまたま留守で難を逃れたが、潜伏先を知られていたわけで、剣術で有名な新選組は、情報収集能力もすごく、(龍馬のような脱藩浪士らは)きっちりと尾行されていた。龍馬はこの(高い情報収集力の)餌食になったと私は考えている」

 〈池田屋事件とは、8月18日の政変で京都を追われた長州藩をはじめ、土佐藩などの志士らが京都の旅館「池田屋」に集結する情報を、新選組がキャッチ。近藤勇ら隊士が踏み込み、志士9人を殺害するなどしたもの。この事件を機に長州藩は禁門の変を起こした〉

老中にまでマークされていた

 桐野氏「幕府に(危険人物として)認識されたのは、慶応元年12月。残された肥後藩士の日記によると、老中が『龍馬は何者だ』と周囲に尋ねており、幕府側からマークされたことがわかる」

 〈この老中の発言の1カ月ほど前、龍馬は長州処分の勅許(天皇の許可)に反対した薩摩藩の大久保利通の書簡の写しを、長州藩に届けており、(倒幕に動いていく)薩長斡旋を図る危険人物として幕府側は注目。老中にまで、名前を知られるようになっていた〉

 桐野氏「大久保の書簡は、長州処分の勅許を無条件に受け入れるものではない、などと、阻止しようとしたいきさつを書いたものだった。(禁門の変で薩摩藩が幕府側だったことなどから、当時、薩摩と長州との関係はかなり悪く)薩摩藩士が長州へ行けば切られる。しかし、龍馬なら長州には仲の良い木戸孝允がいる。使者として龍馬への信頼が大きかった一方、幕府側からは危険人物とみられ、新選組の監視も厳しくなった」

 〈翌年の慶応2年1月23日、龍馬と長府藩士が、伏見奉行の役人らに襲われる寺田屋事件(寺田屋は京都にあった旅館)が起きる。龍馬は手に重傷を負ったが、何とか逃げのびた。その際、けん銃で反撃し、2人を射殺している。事件の2日前には、同じ京都で倒幕のための薩長同盟が締結されたばかり。龍馬は中岡とともに仲介役を務めるなど、大きく貢献していた〉

船の中にまで幕府の密偵

 桐野氏「寺田屋事件以降も幕府側の監視は執拗に続いた。亀山社中(龍馬が志士らと結成した貿易結社でその後、海援隊となる)の使っていた船に、水夫として幕府側の密偵が潜入もしている。また、薩摩藩士を名乗っていた脱藩浪士が、素性を見破られて逮捕されるなど、中岡慎太郎も危機感を抱いていた。このような緊迫した政局の結末が、近江屋事件だったといえる」

 〈寺田屋事件の翌年の慶応3年10月、大政奉還が成立。この1カ月後に龍馬は近江屋で殺害されることになる。桐野氏は、この龍馬暗殺の政治背景を「(平和的な)大政奉還派」と「武力による倒幕派」の対立とみるのは、史料にもとづかない俗説と切り捨てた。その上で、大政奉還-幕府廃止-王政復古政権の樹立という流れを推進する「廃幕派」と、幕府政権を維持し、そのためにはクーデターも辞さないという「保幕派」の対立軸で、とらえるべきだと主張する。

 寺田屋事件の約1カ月前に老中に名前を認識されてから暗殺されるまでの2年間にわたり、幕府にとって危険人物になっていた龍馬。こうした政局を踏まえた上で、(暗殺の政治背景として重要なポイントとなる)大政奉還に反対していたのは誰だったのか。さらに具体的な黒幕について持論を展開した〉

大政奉還に誰が猛反発していたのか

 桐野氏「当時、大政奉還に反対していたのは、会津藩や桑名藩だったことを考えなければいけない。一方、(同様に黒幕説のある)薩摩藩は、大政奉還を土佐藩以上に推進しており、『大政奉還は表向きは土佐藩が関わったが、実は薩摩藩が操っていた』と考えていた他藩の史料すらある」

 〈会津藩といえば、龍馬暗殺の実行犯として最有力視される京都見廻組や新選組を支配下に置き、京都の治安を担当していた。尊王攘夷派の弾圧を行っており、脱藩志士らの恨みを買っていたとされ、桑名藩も京都の治安担当だった〉

 桐野氏「大政奉還が成立しないように、会津藩も桑名藩も武力によって公家を脅そうとするなど、邪魔をしようとしている。しかし、中止させることができず、大政奉還がいざ成立すると、会津藩が『一同驚愕し、これまでの努力が水泡に帰した』と嘆いたとする史料もあるのです」

 〈会津、桑名藩の怒りの矛先は、薩摩藩に向けられていた。薩摩藩邸襲撃や小松帯刀ら3人へのテロを計画したが、襲撃を察知した岩倉具視の警告によって、小松ら3人はすぐに京都から離れたとされる。しかし、最大の政敵は薩摩藩だけではなく、大政奉還建白を進めた土佐藩などもターゲットだったという〉

襲撃のターゲットが変更された?

 桐野氏「襲撃しようとした3人が帰国したことで、会津・桑名藩は振り上げた拳の下ろしどころがなくなってしまった。その身代わりとして近江屋に潜伏していた無防備な龍馬へのテロリズムを敢行したのではないか。京都見廻組がやったのは間違いない。では誰が命令をしたのか。薩摩でないことは確かです。どこなのかは想像がつくでしょう」

 〈幕府説が最有力と示唆し、桐野氏は講演を終えた〉

 〈講演の後、それぞれの黒幕説に対して、桐野氏を含む4人の研究者による討論も行われた。土佐藩説、紀州藩説、薩摩藩説についてはそれぞれ動機や背景に矛盾点や疑問がある一方、幕府説は他の3説と比べもっとも矛盾や違和感がないというのが共通の見解だった。しかし、断定はせず、最後に県立坂本龍馬記念館の三浦夏樹主任学芸員が「これだと100%決められるものではない。将来、新たな史料が出る可能性もあるし、別の角度から史料を見直すことも重要。まだまだ研究する必要がある」と総括した〉

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 桐野作人 出版社編集長からフリーになり、歴史作家となる。主な著著に「さつま人国記 幕末・明治編1~3」「孤高の将軍 徳川慶喜」など多数。龍馬暗殺についての単行本を来年初めにも刊行予定。