東京オリンピック・パラリンピック2020特集「あのころのニッポン 戦後19年目のオリンピック」

あのころのニッポン

01

五輪開催で変貌をとげた
東京の街

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02

世界に誇る
“夢の超特急”

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03

デザイン遺産は
いまも色あせず

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04

聖火は国産機YS-11に
乗ってやってきた

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05

開会式は
「ギリシャの古代劇」

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06

世界を追い抜け
15日間の悲喜劇

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07

ひと目見たい
街中がマラソンに熱狂

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08

精一杯の心配り
外国人が経験した日本

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  • 佃島を出発し明石町に向かう曳舟渡船。東京・中央区の「佃の渡し」は都営最後の渡し船で通勤の足として親しまれていた。隅田川河口にある佃島は江戸時代からの漁師町=1961年9月
  • 隅田川を行く渡し船の上で物思いにふける制服姿の少女。少女の視線の先には建設が進む佃大橋=1962年、東京都中央区
  • 東京五輪を約2年後に控えた1962年12月24日の渋谷駅周辺。東急文化会館にあった天文博物館五島プラネタリウムのドームが目印。同施設は2003年に解体され、現在は渋谷ヒカリエと姿を変えている
  • 新宿駅西口上空から撮影された新宿3丁目方面=1962年12月24日
  • 1963年6月に撮影された有楽町周辺の街並み。日比谷交差点から銀座、東京湾をのぞむ。晴海通りでは地下鉄日比谷線工事の真っ最中
  • 代々木にあった米軍家族住宅エリア「ワシントンハウス」。1946年に建設され、面積は東京ドーム約20個分。249棟543戸の木造住宅と鉄筋4階建てのアパート14棟があり、敷地内はまさに「米国」。写真は、スーパーで買った食品や日用品をワゴンで運ぶ米国人親子=1961年10月
  • ワシントンハイツ内のスーパーのレジ風景。一般人は容易に出入りできなかったが、金網や柵の所々に開いた穴から入り込む日本の子供もいたという=1963年10月
  • 1963年5月ごろの明治神宮外苑周辺。左手前から秩父宮ラグビー場、神宮球場、神宮第二球場、国立競技場。右奥は聖徳記念絵画館。右手前は外苑いちょう並木と都営北青山一丁目アパート
  • 明治神宮外苑の中心施設として設けられた聖徳記念絵画館と、それに続く300メートルのイチョウ並木=1963年5月15日
  • オリンピック資金財団会長に寄付金1000万円を手渡す力道山(左)。国を挙げて自国選手を応援するローマ五輪の様子を視察した経験から支援を申し出た力道山だったが、東京大会を目にすることなく、この約3カ月後に死去=1963年9月、千代田区のホテルニュージャパン
  • 建設中の首都高速道路3号渋谷線と東横線渋谷駅。交通密度の高い道路を跨いで高架橋を設置するため、首都高建設には「ディビダーク工法(張出し架設)」が都市部で初めて採用された。東京国際空港(羽田空港)と競技施設のある神宮地区を結ぶ1号羽田線から4号新宿線は、「東京五輪までに」を合言葉に工事が進められた=1963年
  • 1964年9月の開業を控え、同年4月に公開された東京モノレール初代車両100形。全長10メートル級と短い車両で、69年には輸送量の大きい全長15メートル級の500形が登場。100形は後継車両の増備と老朽化により、78年までに全廃された
  • 大会中はカヌー競技が開催された神奈川県立相模湖漕艇場。美しい富士山が見えるこの漕艇場は現在でもカヌーやボート競技の会場として利用されている=1964年5月
  • 1964年7月に撮影された神奈川県藤沢市の片瀬東浜海水浴場。近くの江ノ島では大会中、ヨット競技が行われたが肝心のレースは沖合で実施され砂浜からは何も見えず、「秋の特需」とはならなかった
  • 大会3カ月前に、神田・駿河台から渋谷・神南に移転した新岸記念体育会館。大日本体育協会会長、IOC委員を歴任した岸清一博士の遺言に基づいて建設され、現在もJOCや日本体育協会など、多くの国内競技団体の本部がある=1964年7月
  • 五輪開催のため、学生の出入りがなくなりひっそりと静まり返った早稲田大学のキャンパス。フェンシングが開催された記念会堂は、1957年に大学創立75周年を記念して建設された体育館=1964年10月
  • 東京五輪開催が決定するとワシントンハイツは選手村の候補になり、1961年に日本返還が決定。敷地内には国立代々木競技場のほか国際放送センターも建設された。大会後、センターの建物は後にNHK放送センターとなり、他の施設の多くは緑あふれる代々木公園に変身=1964年
  • ヨット競技会場となったのは神奈川県藤沢市にある江の島ヨットハーバー(湘南港)。大会期間中の広場には五輪マークも描かれている。五輪開催以来、公共ヨットハーバーの草分けとして、数々のヨットレースが開催されてきた=1964年10月12日
  • 1964年当時の新宿駅周辺。中央の明治生命本社ビル(現明治安田生命新宿ビル)には、日の丸と五輪マークが描かれた垂れ幕が掲げられている
  • 旧ワシントンハイツを活用した選手村は1964年9月15日に開村式がおこなわれた。選手村跡地の一部は国立オリンピック記念青少年総合センターとして現在も利用されている
  • 「東京モノレール」開業前日に行われた開通式では盛大にテープカットが実施された=1964年9月16日(東京モノレール提供)
  • 右奥に見える汐留貨物駅は現在、汐留シオサイトになっている。東海道新幹線、山手線など国鉄(現JR)の線路14本を跨ぐ東京モノレールの立体交差は最大の難工事だった=1964年
  • 浜松町~田町間を走行する東海道新幹線と東京モノレール=1964年、東京都港区
  • 五輪開催中の新宿4丁目交差点(新宿駅南口付近)。写真奥に向かって国鉄の線路を跨ぐ甲州街道はマラソンコースにもなった。右のビルには鰻の老舗「鰻登亭」の看板も=1964年10月24日
  • 熱海と三島の間にある新丹那トンネルは、1941年に弾丸列車計画として掘り始められたが、戦況悪化による中断を経て59年に工事が再開、64年に完成した。活断層を掘削する難工事だった=1962年
  • 新大阪駅の建設工事。基礎を固める支柱が次々と地盤の固い層へと押し込まれてゆく。上の線路は現在の東海道本線=1962年10月
  • 建設中の新幹線新大阪駅。ガード下は東海道本線との連絡駅=1964年1月10日
  • 開業を2年後に控え、東海道新幹線のモデル線で行われた時速160キロの試験走行=1962年9月
  • 開業を1年半後に控えた1963年3月30日、神奈川県綾瀬市から小田原市鴨宮付近まで敷かれていたモデル線で行われた時速250キロの走行試験。試験車両1000形を運転する桐村博之さん(奥)と大塚滋運転車両主任。7人いたテスト運転士は、未体験のスピードに挑む勇敢さから、旧国鉄内で「七人の侍」と呼ばれていた(桐村さん提供)
  • 全通式で、旧国鉄の新幹線担当者・石原米彦常務理事(手前背中)の音頭で新幹線締結万歳を三唱する関係者ら=1964年7月1日、現在の神奈川県川崎市中原区
  • 開業前、初めて東京駅に入線した東海道新幹線の試運転車両=1964年7月15日
  • 新幹線ホームの工事が進む東京駅=1964年
  • 新設された東京駅の新幹線19番ホームに建てられた「ゼロ起点標」= 1964年7月
  • 当初は新大阪~東京間を3時間で走る想定だった「夢の超特急」の試運転。そのスマートなスタイルも望遠レンズを通して見るとイモムシそっくり=1964年8月16日
  • 6割が完成した新大阪駅の新幹線ホーム=1964年7月4日
  • 地下鉄新大阪駅(左手前)は新幹線「新大阪駅」(右奥)より一週間早く完成した=1964年
  • 新幹線新駅の案が認可されたのは1960年1月。その約4年後の64年10月に開業した新大阪駅
  • 新幹線開業を祝う飾りつけも終わり祝賀ムードいっぱいの東京駅丸の内口=1964年9月30日
  • 東海道新幹線開業にともない、8日間かけ「0001」の乗車券や定期券を手に入れた原さん(左から2人目)ら。新大阪駅で大喜び=1964年10月1日
  • 1等と2等があった超特急「ひかり」。料金(運賃と特急料金)は東京から新大阪まで1等が5030円、2等が2480円。2等料金は当時の大卒初任給の約10分の1だった=1964年10月1日
  • 駅の助役室には構内の状況が一目でわかるテレビが完備。ホーム、コンコースの混雑具合を見て適切な指令が発せられる=1964年10月
  • 東京駅19番ホームで行われた新幹線出発式。白と青のツートンカラーの新型列車「ひかり1号」(12両編成)の発車ベルを押すのは石田礼助旧国鉄総裁=1964年10月1日
  • 東京駅を出発して4時間後、新大阪駅に到着したひかり1号。乗務員には花束が贈呈された=1964年10月1日
  • 東京駅を出発し新大阪駅を目指す開業直後の東海道新幹線「0系」。横を走る京浜東北線や山手線などの国鉄車両はチョコレート色の旧型が主流だった=1964年、東京都港区芝
  • 五輪公式服の仮縫いをする陸上の織田幹雄総監督。服のデザインを手掛けたのは東京・神田で洋服店を経営していた望月靖之さん。1952年ヘルシンキ五輪の際にブレザーの調製を受注。以降、国際大会の公式服を長年担当した=1964年9月、新岸記念体育会館
  • 日本選手団の五輪公式服は鮮やかな赤と白の上下。「男性に赤はふさわしくない」といわれた時代、デザイナーの望月さんは、いまや東京五輪の象徴ともいえる色の組み合わせを貫いた。「日本の色をブレザーに表してみては」という秩父宮様の言葉が原点だった
  • 開催を1年半後に控え、急ピッチで改修整備が進む駒沢オリンピック公園総合運動場。中央右の陸上競技場は、日銀職員で後の大蔵大臣だった井上準之助氏が建設したゴルフ場跡地に建設された。中央を上下に走る道は駒沢通り、右手前は旧国立東京第二病院(現国立病院機構東京医療センター)=1963年4月18日
  • 1964年に陸上競技場、体育館、屋内球技場、第一・第二球技場、補助競技場の6施設が完成した駒沢オリンピック公園総合運動場。中央広場の高さ50メートルの管制塔は「オリンピック管制塔」とも呼ばれ、五重の塔に似た形状がいかにも日本を象徴する建築として東京五輪公式ハンドブックの表紙を飾った=1964年7月
  • レスリング競技のメイン会場として使用された体育館。駒沢オリンピック公園は高山英華氏が全体計画を示し、芦原義信氏が広場・体育館・管制塔を設計した=1964年10月
  • 駒沢オリンピック公園の陸上競技場では、サッカーの予選リーグと準決勝1試合が開催された。現在、スタンドの収容人数は約2万人でトップレベルの試合も開催=1964年7月
  • 東京五輪にあわせて建設された日本武道館。1968年にビートルズが初めてコンサートを開催して以来、レッド・ツェッペリン、クイーンといった海外の大物アーティストが次々と公演を行い、いつしか「ロックの聖地」としても有名に=1964年10月
  • 国立代々木競技場の建設は1963年2月1日に開始された。18カ月という工期は常識的に不可能とされ、視察のため来日した当時のIOC会長は「米国人がやるのなら絶対に間に合わないと思うが、日本人の能力を信じている」と言って帰国したという=1964年3月27日
  • 国立代々木競技場は、丹下健三氏、坪井善勝氏、井上宇市氏という日本建築界を代表する3人が設計。丹下氏による「吊り屋根構造」の巨大建築物は世界でも数例、日本では初の試みだった=1964年3月27日
  • 建設が進む国立代々木競技場の敷地内事務所で作業をする人々。設計、施工など担当の壁を越えて意見を出し合っている=1964年3月
  • 建設中の国立代々木競技場第一体育館。最も頭を悩ませたのは、直径34センチのワイヤーロープ2本を高さ40メートルの主柱2本の間に渡す作業。メーンケーブルは複数のロープの集合体で、その両端は地中へと伸び、吊り橋のように屋根を支える仕組み。第二体育館も同様の吊り屋根を採用=1964年3月
  • 国立代々木競技場第一体育館の内部。恐竜の骨格のように、天井部のメーンケーブル2本から左右に鉄骨が伸びる=1964年3月27日
  • 完成間近の国立代々木競技場第一体育館。最終的には、第二体育館とともに大会開催39日前に完工した。後方には米軍から返還され、選手村として整備が進む旧ワシントンハイツ=1964年
  • 大会中の国立代々木競技場第二体育館の内部。丹下健三氏設計の近代的な屋根からは秋の日射しが差し込む=1964年10月
  • 完工した国立代々木競技場第一体育館の室内プール競技場。大会中は競泳・飛び込み用に使用された=1964年9月
  • レスリング競技を表すピクトグラム。「ピクトグラム(視覚記号)」は世界に先駆けて東京が本格導入したユニバーサルデザイン(UD)のひとつ
  • 東京大会は93カ国・地域から5000人超の選手が参加した東洋初の五輪。言葉の壁を乗り越えたデザインが活躍した
  • 食堂や更衣室、銀行などの施設を表すピクトグラムの制作チームには、宇野亜喜良氏や美術家の横尾忠則氏もいた
  • 聖火トーチと安全燈の試作品をテスト。トーチは、国内屈指の弾薬メーカー「日本工機」の製品で、福島の白河製造所で生産された。大会組織委から「雨が降って風が吹いても絶対に消えないトーチ」との難題を受け、水中でも無酸素空間でも燃えるステンレス製トーチを開発=1963年3月
  • 開会式前日には皇居前で聖火の集火式が行われた。挨拶する東龍太郎東京都知事(手前)の背後に置かれた聖火台は、かつては東京都庁に保存されていたが、現在は駒沢オリンピック公園競技場内の陸上競技場に展示されている=1964年10月
  • 国立競技場に設置された旧聖火台は直径と高さ2.1メートル、重さ2.6トン。埼玉県川口市の鋳物師、鈴木万之助さん、文吾さん親子が製作を手がけ、戦後復興の象徴に。旧国立競技場の解体にともない取り外され、現在は東日本大震災の被災地、宮城県石巻市総合運動公園に設置されている=1964年8月
  • 開会式での最終聖火ランナーに決定し、喜ぶ坂井義則さん(左から2人目)とその家族。早稲田大学陸上部に所属し、日本陸連の強化指定選手に選ばれながらも東京五輪の代表選考会で敗れた後の吉報だった=1964年8月
  • 聖火リレー・最終日ランナーの初顔合わせ。左3人目から青木さん、鈴木さん、後藤(和)さん、後藤(秀)さん、東京五輪組織委の与謝野事務総長、飯島さん、岡島さん、池田さん、落合さん、福池さん、坂井さん=1964年8月
  • 8月21日にギリシャで採火式が行われた聖火は、22日にリレーでアテネに到着。その後、聖火空輸特別機“シティ・オブ・トウキョウ”号(日本航空のコンベア880M型ジェット)により世界11の経由地を経て日本に到着した。羽田空港に駐機するYS-11機の中で3基の聖火を取りつける五輪関係者ら=1963年9月
  • 沖縄に向かって鹿児島空港を飛び立つ聖火特別空輸機YS-11=1964年9月
  • 聖火を手に那覇空港に着いた高島聖火空輸派遣団長ら(中央、両手にかかげている)=1964年9月
  • 当時の沖縄は米国の占領下にあったが、沖縄が日本体育協会に加盟していたことから、国内の聖火リレーは沖縄から開始されることが決定。現地の学生たちも那覇飛行場で日の丸を振って聖火の到着を祝福した=1964年9月7日
  • 那覇空港を発ったリレー隊は、海岸線をまっすぐ北上し奥武山競技場へ。沖縄の第1走者は琉球大学4年で同大学体育科学生委員長の宮城勇さん。米軍統治下のため伴走車のブルーバードは左ハンドル。琉球政府交付のナンバープレートを付けている=1964年9月7日
  • 「ひめゆりの塔」前に到着した聖火を出迎える、ひめゆり部隊の関係者や地元の学生たち=1964年9月8日、現在の沖縄県糸満市
  • 那覇飛行場を出発した聖火は奥武山競技場の聖火台にともされた。産経新聞夕刊は「観衆のすさまじいまでの興奮と感激は、オリンピック開会式があたかもいまここで行われているかのよう」と表現=1964年9月7日、沖縄県那覇市
  • 聖火の到着を祝い、奥武山競技場で披露されたエイサー=1964年9月7日、沖縄県那覇市
  • 聖火は9月9日午前6時58分、全日空が運営するYS-11で沖縄を出発=1964年
  • 国内聖火リレー4コースのうち、東北を経由する第3・4コースは北海道が起点。航空自衛隊のF‐86戦闘機3機と、T-33練習機(左)にエスコートされ千歳空港上空を通過する聖火輸送機(右手前)=1964年
  • 聖火用具の輸送には、鞄製造に定評のあった老舗「三洋堂」による専用のポータブルケースが採用された=1964年8月
  • 世界各地および沖縄をリレーした聖火が鹿児島県の鴨池空港に到着。トーチに点された聖火が機内から現われると、空港は大歓声に包まれた=1964年9月9日
  • 桜島をバックにオリンピアの火を高々と掲げる本土の第一走者、高橋律子さん=1964年9月
  • 宿泊地の鹿児島県庁に到着した、同県最終ランナーの森孝生さん=1964年9月
  • 宮崎を出発し、四国・近畿・東海を経由した第2コースの聖火が大阪城前を通過=1964年9月26日
  • 聖火リレーも終盤、東京都内を走るランナー=1964年10月7日
  • 千代田区大手町の産経新聞本社前を通過し、東京都庁を目指す聖火リレー=1964年10月
  • 鹿児島を起点に、九州、山陰などを経由し東京を回った第1コースの聖火が、皇居の桜田門前を通過し都庁に向かう=1964年10月
  • 日本全国を4コースに分かれてリレーした聖火のひとつが、当時は千代田区にあった旧東京都庁に到着=1964年 10月7日
  • 都庁の知事特別応接室に安置された第3、第4コースの聖火の番をする役員=1964年10月
  • 聖火は大会開催前夜、皇居二重橋前で行われた集火式で合火された。セレモニーにはギリシャの採火式に参加したカッセリさんも登場=1964年10月9日
  • 開会式を控えた国立競技場の聖火台下スタンドで結婚式を挙げるカップル
  • 国立競技場のスタンドは満員。開・閉会式入場券は抽選制。開会式分3万2000枚の倍率は87倍で“プラチナチケット”だった
  • 天皇・皇后両陛下がご臨場し君が代が演奏された後、オリンピックマーチに合わせ選手団の入場が始まる。皇太子ご夫妻らもご臨席された
  • 笑顔で手を振りながら入場行進するオーストラリア選手団。入場はギリシャを先頭にアルファベット順に行われた。各選手団には歩幅75センチとの指示がされていた
  • 頭文字が同じ「U」のため、冷戦下で対立しながらも、アメリカ合衆国(USA)に続き、ソビエト連邦(USSR)が入場行進
  • 金メダル候補めじろ押し…堂々と行進する大部隊のソ連選手団。ベージュの制服をまとい、正面スタンド前では、さっと取り出した赤いスカーフを手に愛嬌をふりまいた
  • 当時最新鋭の機材を導入して開会式の一瞬一瞬を切り取るカメラマンたち
  • 夏季五輪参加は東京大会が初めてとなるモンゴルの選手団
  • 五輪初参加となった英領北ローデシア。開会式では、左肩に英国旗ユニオンジャックがあしらわれた旗を掲げて行進するが閉会式当日に独立、閉会式では「ザンビア」として国旗も変化
  • 手をあげて各国選手団を迎える世界青少年キャンプの参加者
  • 開催国として最後に入場する日本選手団。旗手を務めたのは競泳の福井誠
  • 400メートルのトラックを1周した各国の選手団はフィールド中央に縦列で整列。前日は台風により大雨にみまわれたものの、開会式当日は抜けるような秋晴れに
  • 選手と観客で埋まった国立競技場。大会前の拡張工事でスタンドの収容人数は5万2000人から7万1600人に増えた
  • スタンド収容人数拡張も開会式当日、国立競技場周辺は場内に入れないファン8万人で埋まった。目当ては競技場に向かう各国選手団で、至近距離から声援を送った
  • 開会式を一目見ようと、国立競技場に隣接する日本青年館屋上に集まった人たち
  • スタンドには世界中から来日した外国人記者がズラリ。記者団は、席に設置された大量の小型テレビモニターに驚かされたという。添えられた案内書は数カ国語で表記
  • 海上自衛隊員8人が五輪旗を持ち入場。オリンピック讃歌にあわせてポールに掲揚した
  • 午後3時3分、海外12カ国、日本全国計2万6000キロをわたった聖火とともに最終ランナーの坂井義則さんが国立競技場に到着。トラックを4分の3周し、バックスタンド中央にある163段の階段をかけあがる
  • 聖火台に点火する坂井義則さん。坂井さんはこの瞬間を後に「色とりどりの民族衣装を着た選手たちが緑の芝生に映えて、素晴らしい光景」(サンケイスポーツ)と振り返っている
  • 坂井さんによってもたらされた火は聖火台で赤々と燃え上がり、観客の感動はピークに達した
  • 「真のスポーツマン精神をもって大会に参加することを誓います」。聖火台に火が点ると、全選手を代表して体操男子の小野喬が選手宣誓
  • 平和の象徴として8000羽の鳩が放たれた
  • 鳩が放たれると、入れ違いに航空自衛隊所属のブルーインパルス5機が飛来。上空3000メートル、東西7キロにおよぶ青、黄、黒、緑、赤の5つの輪を描いた
  • 記録映画『東京オリンピック』制作のためロケハンをする市川崑監督。市川氏が制作を請け負ったのは大会開催年初めで、短期間での準備となった。同作は大会の翌年1965年に公開され1950万人を動員
  • 大会第1号となる金メダルを獲得し、日本チームを勢いに乗せたウエイトリフティングの三宅義信。ジャークで152キロという世界新記録も樹立した
  • 男子バスケットボールの日本対カナダ戦。日本は一方的にカナダを押しまくり58-37で快勝。予選リーグで2連敗を喫していたが待望の1勝をあげた
  • 女子競泳100メートル予選で力泳する木原美知子。当時から美女アスリートとして人気を誇った
  • レスリング・フリースタイル、バンタム級57キロで金メダルを獲得した上武洋次郎。世界王者であるソ連のイブラギモフとの試合で左肩を脱臼、痛みに耐えての偉業達成となった
  • サッカー日本代表はアルゼンチンを相手に大金星。1-2でリードされた81分、釜本邦茂のクロスを川淵三郎(右から3人目)がダイビングヘッドで決めて同点。その後、GKがはじいたボールを小城得達が押し込んで逆転。決勝トーナメントへ進出を果たした
  • 陸上100メートル予選で見事な走りを見せる米国のボブ・ヘイズ(左)。決勝では10秒0の世界タイ記録で金メダルに輝き「褐色の弾丸」とも呼ばれた。東京大会後にはNFLのチームに入団し活躍、殿堂入りも果たしている
  • サッカーのユーゴスラビア対ハンガリーの一戦。厳しいチェックを受けながらボールをキープするユーゴスラビア代表の選手(右)は後に日本代表監督を務めるイビチャ・オシム
  • 女子バレーボール、日本対ポーランドの試合を観戦する女優の中村メイ子さん(左)と淡島千景さん
  • 男子競泳800メートルリレー決勝で日本チームは銅メダル。チームメートと喜び合う最終泳者の岡部幸明。水泳競技最終日に獲得したメダルが、全水泳競技通じて唯一のメダルに
  • サッカーの日本対ガーナ戦を観戦する長嶋茂雄氏(左)と王貞治氏
  • 遠藤幸雄によるつり輪の演技。遠藤は種目別の平行棒で金メダルを獲得したほか、日本体操史上初の五輪個人総合優勝も果たした
  • 馬術の大賞典障害飛越競技、日本では千葉幹夫が最終日に孤軍奮闘したものの馬の力で外国勢に勝てず
  • 事実上の決勝戦といわれた柔道・軽量級の準決勝でライバルだったソ連のステパノフを破るなど、圧倒的な強さで金メダルを手にした中谷雄英
  • 柔道80キロ超級の準決勝でソ連の強敵キクナーゼを体落としで破る猪熊功
  • 都心から30キロ離れた八王子市で開催された自転車競技。ロードレースは市街地を中心に一周25キロの特設コースが設置され、のちにツール・ド・フランスを5度も制覇したエディ・メルクスら多くの選手が参加
  • 平均台の演技を見せるチェコスロバキアのベラ・チャフラフスカ。女子体操個人総合を制したチャフラフスカは日本だけでなく世界をも魅了した
  • 男子体操・団体では日本がローマ五輪に続く連覇を達成。金メダルを首に東京体育館の場内をまわる(左から)小野喬、早田卓次、鶴見修治、三栗崇、遠藤幸雄、山下治広
  • 体操競技会場となった東京体育館で、各国選手の演技に見入る芸術家の岡本太郎氏
  • ボクシング・バンタム級で韓国の選手と対戦する桜井孝雄。積極的に攻め、日本ボクシング界に初の金メダルをもたらした
  • 男子柔道・無差別級の決勝、「オランダの巨人」と称されたヘーシンクが日本の神永昭夫をけさ固めに決めた瞬間。柔道の母国・日本にとって、地元開催大会での最重量級で外国人に金メダルを奪われたことは大きな衝撃に
  • 女子バレーボール・日本対ソ連戦で日本の主将、河西昌枝のスパイクが決まった瞬間。「東洋の魔女」は圧倒的な強さで金メダルに輝いた。決勝戦はテレビ視聴率66.8%(関東地区)を記録、スポーツ中継ではいまだに破られぬ歴代最高点
  • 「お父さんやったね」。女子バレーボールの大松博文監督(左)にすがり、うれし涙にくれる娘さんと夫人の美智代さん(右)
  • バレーボール最終日、日本対ソ連の激闘を観戦し終え退出される美智子妃殿下
  • 10月24日夜、国立競技場で行われた閉会式。厳粛な空気の中を五輪旗が退場。上に見えるのはギリシャ、日本、メキシコの国旗
  • 閉会式で帽子を振って行進する日本の選手団
  • 電光掲示板には英語で「また1968年にメキシコシティで会いましょう」の文字が表示され、選手らが手を振りながら退場した
  • 選手が通過する何時間も前から沿道にゴザを敷き正座して待つ人々。靴を脱ぎ正座で待つ親子連れも。マラソンコースは、国立競技場をスタートし、新宿で明治通りから甲州街道(国道20号)へ入り調布市で折り返す42.195キロ
  • 西新宿付近には選手の通過を控えコース上を清掃するかっぽう着姿の女性たちも。折り返し地点が設定された調布市ではコース周辺500メートルの住宅に飼い犬を紐でつなぐよう指示が出された
  • スタートから3キロ地点で先頭集団を形成するエチオピアのアベベ・ビキラ(17番)と日本の円谷幸吉(77番)
  • 国立競技場付近の路上で、鉄柵から顔を出して選手を応援する沿道の観客たち
  • 1960年ローマ五輪ではアッピア街道の石畳を裸足で走り優勝した「裸足の王者」ことアベベ。東京大会ではプーマのランニングシューズを履いていた
  • ハンガリーのシュトー(右)とデッドヒートを繰り広げる円谷幸吉。沿道から大きな拍手と声援が飛ぶ=世田谷区大原付近
  • 新橋付近で、街頭テレビの前に集まり中継に見入る人たち
  • 臨時に設置された街頭テレビで、円谷幸吉の活躍に誰もが釘付けになった=新橋付近
  • 20キロまでに独走態勢を築き、調布市に設置された折り返し地点を通過するアベベ
  • 5位で折り返す円谷幸吉。折り返し地点が設定されたのは調布市飛田給で、現在の「味の素スタジアム」前。戦後間もない当時、辺り一面は田園地帯だった
  • 沿道では、人混みの後方からでも選手が見られるアイデアグッズ「ハイスコープ」も販売された
  • 36キロ地点では民家の二階の窓も鈴なり。テレビでレース展開を見ながら選手の折り返しを待った=渋谷区初台付近
  • ゴール地点の国立競技場前でカメラを構えて選手を待つ観衆=東京都新宿区
  • 2位をキープしゴール地点の国立競技場に入る円谷幸吉だが、すぐ後ろには英国のヒートリーが迫っていた
  • 38キロ付近を力走する日本の君原健二。最終的に入賞圏外の8位(当時入賞は6位まで)でゴール=渋谷区幡ヶ谷
  • トップで40キロ地点を通過するアベベを時計車が追う。「国産品のオリンピック」を掲げる組織委はセイコーを公式時計に任命。同社は36機種1278個の計時機材と170人超を動員して五輪を支えた=渋谷区千駄ヶ谷
  • 2時間12分11秒という世界最高記録でテープを切るアベベ。初の五輪マラソン連覇を達成した=新宿区の国立競技場
  • ゴール直前、ヒートリーに抜かれるも2時間16分22秒というタイムで銅メダルに輝いた円谷幸吉
  • ヒートリーとデッドヒートを繰り広げ、ゴール後には精根尽き果てた表情の円谷幸吉
  • 金メダルを獲得したエチオピアのアベベ。表彰式で観客の声援に応える。左は銀メダルの英国・ヒートリー、右は銅メダルの日本・円谷幸吉
  • 銅メダルを首から下げ、ファンの熱い声援に応える円谷幸吉
  • 国立競技場で行われた表彰式では英国、エチオピア、日本の国旗が掲揚された
  • 開催2カ月前に勢ぞろいした大会のコンパニオンたち。中央やや右後列の笑顔の女性はこの約半年後に長島茂雄氏の夫人となる西村亜希子さん
  • 組織委員の岩田幸彰さん(左)とコンパニオン業務の打ち合わせをする池田紀子さん(中)と池田祥子さん。紀子さんは元内閣総理大臣、池田勇人氏の娘
  • 選手村入村式で公開された部屋の内部。室内にはベッド、パイプイス、事務用ロッカーなどが置かれていた
  • 女子選手村の内部。昔ながらの洗濯板のほか、二層式の洗濯機も完備されていた
  • パーマ機が完備された女子選手村内の美容院。中には、和装のカツラを試す選手や一戦を前に髪を切る選手も
  • 開催前日、皇居前で行われた聖火の集火式では、ギリシャの採火式に参加したカッセリさんにサインを求める人たちも
  • 羽田空港に到着した外国人選手たち。到着ゲートには「東京オリンピックへようこそ」の文字
  • おそろいの制服を着て、選手村から開会式に向かうカナダ代表の女子選手
  • 閉会式に出席する選手たちを輸送するため、選手村を出発する専用バス。入り口付近は活躍した選手をひと目見ようと集まった人々で混雑
  • 黒のブレザーを着たニュージーランドの体操選手に取材のため声をかける服飾デザイナーの田中千代さん(左)。田中さんは民族衣装の収集家としても知られる
  • “ジンバオリパーティー”で陣羽織を着てうれしそうな各国のIOC委員
  • 聖徳記念絵画館前で外国人に道を教える警察官(警視庁提供)
  • 国立代々木競技場内で原稿を書く記者。メインのプレスセンターは日本青年館に整備されおり、各会場とは通信回線で結ばれ、データはテレタイプで自動的に速報された
  • セルフサービスで賑わう選手村の食堂。女子選手村食堂の運営は帝国ホテルで料理長を務めていた村上信夫氏。1日約2万食、約300人のコックが腕をふるったといわれる
  • 練習を終えて、「これ私たちよ」と日本の新聞に見入るフランスの女子体操選手たち
  • フェンシング・エペ個人で優勝したソ連のクリース。着物姿のコンパニオンに囲まれごきげんの様子
  • 国立競技場外で外国人夫妻の案内を務める東京外国語大学の学生通訳(東京外国語大学文書館提供)
  • 射撃フリーピストルで3位に入賞、銅メダルを獲得し笑顔の吉川貴久(左)に握手を求める外国人記者
  • 日本人形を贈られ大喜びするフェンシングのハンガリーチーム=早大記念会堂
  • 日本文化を紹介するため、外国人選手や関係者向けに小さな茶会も開かれた。初めて飲むお茶の味に「ベリーグッド」!?
  • 選手村で、ルーマニアの体操チームと仲良く記念写真に納まる日本の選手たち
  • 取材に応じる体操ソ連代表のラチニーナ。ユニフォーム姿とは違い選手村ではリラックスした表情
  • 日本を離れる前、お別れイベントの一環として上野で日本舞踊を見学する世界青年キャンプのメンバーたち。慣れない正座にも苦戦?
  • 選手村の閉村式。診療所、日本ホテル協会、ショッピングセンターなど、役割ごとに並び万歳三唱をして、無事に運営を終えたことを祝う各種関係者