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【書評】文芸批評家・浜崎洋介が読む『明治頌歌 言葉による交響曲』 エゴに満ちた戦後の空しさ

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文芸批評家・浜崎洋介が読む『明治頌歌 言葉による交響曲』 エゴに満ちた戦後の空しさ

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明治頌歌 1/1枚

 新保氏は本書によって明治という時代の「偉大さ」を論ずるのではなく、歌いたかったのだと言う。それは、明治の「偉大さ」が、説明や解釈を超えたものとしてあるからにほかならない。とはいえ、本書が描くのは明治文明開化の成功物語ではない。それは、「明治の精神」の一つの結果でしかなかった。むしろ明治という時代が偉大なのは、成功と不成功の意識を超えて、己の歩き方を見失わなかった日本人の「正気(せいき)」、言い換えれば、一種の「日本的ピューリタニズム」の清廉さが最も明確に発揮された時代だったからである。

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 では、「日本的ピューリタニズム」とは何なのか。それを新保氏は「美」より以上に「義」を重んじた明治人のエートス、あるいは日本という台木に西洋を接木しようとする際の精神の緊張として見いだそうとする。それは、ときに幕末維新の志士の誠(立見尚文・武部小四郎・奈良原至)であり、北海道開拓の精神(内村鑑三・新渡戸稲造・志賀重昂)であり、また自然主義文学に対する三宅雪嶺や徳富蘇峰、あるいは西郷南洲や乃木希典などの硬文学(評論、史論、漢詩文)の手応えとして存在しているだろう。

 そして、それらの変奏を通じて歌われるものこそ日露戦争に対する頌歌(しょうか)であった。計算だけで戦われた訳ではない戦争のその辛うじての勝利は、まさに近代日本の「うらわかき悲しき力」(斎藤茂吉)を積み重ねた果ての「ひやりとするほどの奇蹟(きせき)」(司馬遼太郎)としてあった。

 が、白樺派以降の時代、特に白樺派的な文化主義が全面化した戦後という時代は、この「ひやりとするほどの奇蹟」を、それを支えた「うらわかき悲しき力」を忘れてしまったように見える。しかし、「義」(刀)を忘れてしまった「美」(菊)など、単なる造花の美しさと何が違うのか。「悲しき力」を自覚しない富国など単なるエゴイズムと何が違うのか。本書が歌う「明治頌歌」を聴きながら私は、そんな造花的な情況を生きざるをえない戦後という時代の空(むな)しさというものを改めて見る思いがした。(新保祐司著/展転社・1300円+税)