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【文芸時評】「近代の終わり」という大きな物語 8月号 早稲田大学教授・石原千秋

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「近代の終わり」という大きな物語 8月号 早稲田大学教授・石原千秋

文芸時評更新
石原千秋さん 1/1枚

 浅田彰の還暦を記念して行われた(浅田彰は僕より2歳若いと改めて確認した)、東浩紀、千葉雅也との鼎談(ていだん)「ポスト・トゥルース時代の現代思想」(新潮)を読んで、「大きな物語はもう来ない」と言いながら、僕たちはいま「近代の終わりという大きな物語」のまっただ中にいるのだと思わざるを得なかった。この鼎談が説得力を持つようなパラダイムこそが「近代の終わりという大きな物語」なのだと言いたいのである。

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 東は、この40年ほどの思想的な流れをまとめている。「ポスト・トゥルースというのは、実はすごくポストモダン的なネーミングです。真実などない、ということがポストモダンではよく言われていて、そのあと九〇年代、二〇〇〇年代にはむしろポストモダンに対する反動として、『真実』や『エヴィデンス』を人々が求めるようになった。ある種の理性主義と実証主義に戻ったわけですよね。ところが、現実にはポスト・トゥルースの時代が来た」と。実に見事というほかないが、このまとめ方に納得することが「近代の終わりという大きな物語」の中にいる証拠だと言いたいのである。

 「ポスト・トゥルースの時代」などと言うが、また「ファクト・チェック」が可能であるかのように言う人もいるが、ではこれまでの歴史の中で「トゥルースの時代」などあったのだろうか。「ポスト・トゥルースの時代」というネーミングは、「トゥルースの時代」があったかのように信じ込ませる。むしろ、その方がよほど恐ろしいことだと思う。その意味において、「ポスト・トゥルースの時代」という現状認識は、反動的ではないだろうか。「ポスト・トゥルース時代」というネーミングはその反動性を覆い隠す。もちろん、東はそんなことは十分にわかっている。先の引用部に続けて、「いまこそポストモダン的な問題意識が重要だと見ることもできる」と付け加えているのだから。「ポスト・トゥルースの時代」と言うが、そういう時代こそ「真実」などないという立場が重要だと言っているのである。

 思い起こせば、「近代の終わりという大きな物語」は、「近代を問い直す」とか「資本主義を超えよう」というかけ声を共有したポストモダン思想=ニューアカデミズムからはじまった。それはバブルの思想だった。つまり、資本主義の恩恵をたっぷり被ったものだった。ロラン・バルトが作者に死を宣告して読者の誕生を高らかに宣言できたのも、1本のツリーを否定して枝分かれしたリゾーム(根茎)を思想のモデルにできたのも、人々が多くの選択肢を持ち得た高度消費社会がリアリティーを持った時代だったからではなかったか。