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【本郷和人の日本史ナナメ読み】戦国時代の行軍(下)秀吉の天下取り、カギは「速度」

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戦国時代の行軍(下)秀吉の天下取り、カギは「速度」

本郷和人の日本史ナナメ読み更新
前田利家像(模本、東大史料編纂所蔵) 1/1枚

 歩兵は歩くのが商売。そうはいっても、さあこれから戦うぞという戦場に到着したら、敵の監視の目がありますので、うかつにうろつき回るわけにはいきません。そこで今度、歩兵は土木作業者に早変わり。火力が激烈になった近代だったら塹壕(ざんごう)を掘るところでしょうが、戦国時代はそこまではいかない。土を削って即席の堀を造り、削った土を積み上げて防塁を造り、自分たちの身を守るための陣地造りを始めるのです。

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 鎌倉時代の中ごろ、海の向こうからやってくるモンゴル兵に対して鎌倉武士は石を積んで防塁を築きました。今その一部が復元されていますが、高さは人の身長くらい。これといった工夫があるわけでもない。え、こんなんで大丈夫だったの、と驚くほどシンプルなもの。これに比べると、戦国時代の戦場でのいわゆる「野戦築城」は、手がこんでいる。悲しい現実ではありますが、戦争は間違いなく、技術の進歩に一役買っているのですね。

 みごとな野戦築城の実例が、賤ケ岳古戦場です。天下人を目指す羽柴秀吉は5万の兵を率いて天正11(1583)年3月、織田家第一の家老・柴田勝家の3万の軍勢と対峙(たいじ)しました。両者はにらみ合いながら、各部隊ごとに陣地を構え、それぞれの防塁を築いていった。こうなると、なかなか攻撃に出られない。城を攻めるときには守り手の3倍の兵力が必要、というわけで、即席の防御陣地とはいえ「守る」側が圧倒的に有利なのです。

 先に動いたのは秀吉でした。彼は4月17日、いったん戦場を離脱して美濃の大垣城に入り、岐阜城にいた織田信孝を牽制(けんせい)します。信孝はまあ名前だけかもしれませんが、柴田陣営の盟主ですね。信長の三男。これに先立つ清洲会議(前年の6月27日)では織田家の後継者になりそこねたものの、美濃の領有を認められていたのです。

 4月19日、柴田軍の佐久間盛政(勝家の甥(おい)。当時、加賀半国の20万石くらいを領有)は秀吉本隊の不在を察知し、留守部隊に猛攻を開始。中川清秀(摂津・茨木城主)を討ち取り、いくつかの陣所を陥落させました。この時点で勝家は、盛政に戦略的な後退を命じました。もう一度、守りを固め直して、兵力の上で優勢な秀吉軍に備えようとしたのでしょう。ところが勝ちに乗じる盛政は、命令を聞かなかった。