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【今こそ知りたい幕末明治】(74)古城春樹 五卿の功山寺入り

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【今こそ知りたい幕末明治】
(74)古城春樹 五卿の功山寺入り

山口県下関市長府の功山寺。春には桜が咲く 山口県下関市長府の功山寺。春には桜が咲く

 第1次長州征討のさなか、現在の山口県下関市長府にある功山寺に、三条実美ら五卿が潜居した。

 三条実美らの潜んだ期間は、元治元(1864)年11月17日から、翌年1月14日まで。このわずか2カ月の間に、歴史的事象や事件が、連鎖反応を起こすかのように生じた。

 まず、薩長和解活動の進展である。

 11月26日、福岡藩士の早川勇が、功山寺を訪ねた。第1の目的は、五卿の九州渡海を進めることであった。これは、防長2州を取り囲む征長軍の解兵条件となっていた。

 早川は、渡海に反対する五卿の従者や奇兵隊など諸隊の説得に当たった。その際、早川は薩長和解の必要性も説いた。

 長州にとって、憎むべき薩摩藩との和解など容認できるはずもない。当然のごとく、諸隊士は猛反発した。

 しかし、五卿の従者を務めていた中岡慎太郎や土方久元、さらには、支藩の長府藩士が賛意を示し、薩長和解活動に参入することとなる。

 彼らが加わったことで、それまでおよそ福岡藩士だけで進めていた薩長間の周旋活動が、一気に前進した。中岡と土方は、長府を一拠点として、京都-太宰府間を奔走し、両者の和解に尽力した。

 慶応元(1865)年閏5月の桂小五郎、土方久元、坂本龍馬らの下関会談は、その成果の一つともいえる。

 また、12月15日には、高杉晋作が五卿に暇(いとま)乞いし、その制止を振り切って「暴挙」に出た。いわゆる「功山寺決起」「馬関挙兵」と呼ばれる事件である。

 五卿は、12月12日に九州渡海を内諾し、15日に征長総督府に正式な回答を伝えた。これが晋作の決断に、影響を与えたようだ。晋作は、15日に突如として立ち上がったのではなく、12日の五卿内諾後に、決起を諸隊に促している。

 長府城下の寺院には、諸隊が分駐していた。

 奇兵隊をはじめ諸隊の大半は、すぐさま高杉に従わなかったが、間もなく方針を変え、年明け早々、藩政府軍と交戦した。結果、政権を掌握していた椋梨(むくなし)藤太一派が政府を追われ、中立の山田宇右衛門を中心とする政権が誕生した。新政権は、椋梨政権で粛清・更迭された藩士を政府員に加え、いわば連立政権を樹立した。その後、長府藩や清末藩など支藩を含めた長州藩全体の方針が統一された。

 さらに、五卿の功山寺入りは、長府藩士の結束にも影響を与えたようだ。

 元治元年11月23日に、20人の若手藩士が、長府藩祖・毛利秀元の廟(びょう)前に会し、報国の血盟を結んでいる。その噂は瞬く間に城下に広がり、翌日86人の藩士が集まり、改めて血盟を結んだ。

 彼らは、五卿が長府をたって間もない慶応元年正月18日に、一隊の創設を藩に求める。藩は翌月14日に裁可し、「報国隊」が誕生することとなった。

 同隊は、のちに「吾往隊(ごおうたい)」や「磐石隊」など既存の民兵組織を傘下に置いて、長府藩の最前線を担った。慶応2(1866)年の小倉口の戦い(幕長戦争)で同隊の働きをみた坂本龍馬は、「名高き事なり」と絶賛している。

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【プロフィル】こじょう・はるき

 昭和43年、山口県下関市生まれ。島根大法文学部卒。民間企業などを経て、平成11年から市立長府博物館に勤務。22年、同館と市立東行記念館の館長。27年から市立歴史博物館館長補佐を務める。「三吉慎蔵と坂本龍馬」「長州と薩摩」などの展覧会を企画した。専門は幕末史。