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【今こそ知りたい幕末明治】(72)梅散る夢、乙丑の獄

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【今こそ知りたい幕末明治】
(72)梅散る夢、乙丑の獄

望東尼筆「夢かぞへ」(個人蔵) 望東尼筆「夢かぞへ」(個人蔵)

 慶応元(1865)年のある夜、野村望東尼は梅の花が散る夢を見た。もしや京都から太宰府に移って来られた五卿の身に何かあったのではなかろうかなどと、はかない夢のこととはいえ、望東尼には気にかかってならなかった。五卿とは、文久3(1863)年8月18日の政変で京都を追われた三条実美ら尊王攘夷派の公家たちのことであった。望東尼は彼らに憧憬(しょうけい)の念を抱き、太宰府延寿王院で拝謁したばかりであった。

 その頃、福岡藩では幕藩体制を支持する「佐幕派」と、一触即発の幕府・長州藩の間に立って周旋活動をしていた「勤王派」が、反目し合っていた。幕府から「福岡藩は長州藩側につくのか」と疑われるようになり、藩主・黒田長溥(ながひろ)は、それまでのように長州藩と歩調を合わせるわけにはいかなくなってしまった。ついに長溥は勤王派を弾圧する方針に転じる。

 6月24日、野村家では望東尼とその孫の野村助作に対し勤王派として活動したとの嫌疑がかけられ、自宅謹慎が言い渡された。謹慎中に望東尼は日記「夢かぞへ」を書き始めた。

 同様の戒めを受けた者は、勤王派の首領、月形洗蔵ら14人、そのほか軽卒まで含めれば総勢39人であった。望東尼は、誰もが藩のことを深く思っているだけなのに、誰がこんなひどい目にあわせるのだろうかと憤った。

 望東尼はまた日記で、尼の身の自分にまで藩が「濡れ衣」を着せようとすることは賢いこととは言えないと記している。このことは、望東尼が志士たちの行動を当然至極と考え、今回の処分に対しいずれは反対の動きが生じるであろうと、信じていたことをうかがわせる。

 8月になると、望東尼は実家の浦野家に移され、嫁や孫と「生きながらの野辺送り」のような別れをした。浦野家では自ら望んで座敷牢に入った。

 だが、それでは済まなかった。

 9月になって、志士の筑紫衛(まもる)が、入っていた座敷牢から厠(かわや)の下をくぐり抜けて丸裸で逃げ出したという話が耳に入ってきた。そのせいで藩から、罪人を預かっている家々は一層厳しく見張るように、とのお達しが出た。筑紫は逃亡の途中、那珂川で溺死した。享年30であった。

 この月の8日、望東尼は取り調べに対し、すべて本当のことを話したので、尋問者の鬼神のような心が和んだと記している。同月25日の再尋問では、元治元(1864)年春の志士、中村円太の破獄に誰が関わったかが問われた。他人のことを言うのはさすがに憚(はばか)られたが、既にすべてを話した者がいるということであったので、望東尼も知る限りのことを話した。

 しかし、これは誘導尋問にまんまと乗せられたのではなかっただろうか。この時望東尼は、自分の命はどうでもいいので、罪を自分に負わせるかわりに、同志を助けてほしいと赦免の願いを切々と訴えた。

 9月21日、勅許が下され、将軍の徳川家茂が征長軍を率いて大坂を進発することになった。藩主・長溥は、佐幕の態度を明らかにするため、10月23日以降、謹慎中の志士たちに対する処分を断行していった。

 「乙丑(いっちゅう)の獄」といわれるものである。加藤司書や月形洗蔵ら21人に切腹・斬罪が、ほか16人に流罪が申し渡されるなど、100人を超す者たちに処分が下された。

 望東尼は「かさねがさねの夢の夢、あまりの事に涙もいでず」と落胆した。夏の夜に見た梅が散る夢は現実のものとなった。

 望東尼は、孫である助作の妻たつが、憐(あわ)れでならなかった。たつの父の建部武彦も、母方の伯父(衣斐茂記)も、父方の叔母の夫(加藤司書)も皆処刑された。そして夫である助作には流罪が言い渡されたのだった。

 心を痛めていた望東尼にも10月26日、ついに判決が下った。勤王の志士に屋敷を提供し、旅人を潜伏させたことは死罪に値するが、格別の慈悲をもって「姫島流罪牢居(ろうきょ)」に処すというものであった。

 「乙丑の獄」により福岡藩の勤王派は壊滅した。もしも彼らが生き残っていたら、幕末・明治の福岡はどのような道をたどったであろうか。想像せずにはいられない。