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【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】興国寺城(沼津市根古屋)

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【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】
興国寺城(沼津市根古屋)

 ■早雲旗揚げの城改造し拠点化

 武田信玄は永禄12(1569)年12月、小田原北条氏に対する激甚までの威力偵察行動を経て第2次駿河侵攻を開始した。標的は駿河の北条軍最前線に位置する蒲原城と薩捶(さつた)山(静岡市清水区)であった。北条早雲の孫にあたる北条氏信らが守備する蒲原城は1千人余の兵を討ち取られて落城し、北条氏は後退を余儀なくされた。このため富士郡と駿東郡の境界、沼津市根古屋にあった北条早雲の旗揚げの城として知られる興国寺城を改造し、駿東郡西部の拠点とした。さらに同郡北部は深沢城(御殿場市)を拠点に守備を固めた。

 北条氏政は家臣の垪和(はが)氏続を興国寺城の城将として守備させていたが、8月に入り、信玄が再び伊豆の韮山城方面へ攻撃を行い、興国寺城にも迫った。氏続は自ら武田軍と奮戦して死守できたが、信玄による北条氏領である北関東から武蔵侵攻は極めて激しく、北関東の牙城で知られる北条氏邦の鉢形城、北条氏照が城主の武蔵八王子の滝山城は落城寸前まで追い詰められ、先の薩捶山で窮境となった鬱憤を晴らすかのようなすさまじい軍事行動であった。

 信玄は第2次駿河侵攻前、御厨(みくりや)地方(御殿場市など)を転戦し、深沢城と興国寺城を攻撃して後詰め対策を十分に施した。北条方の駿府を抑える最前線である蒲原城を攻め落とし、薩捶山砦は自落してちょうど1年後に駿府を再制圧することに成功する。

 興国寺城は武田氏、徳川氏に続いて、豊臣秀吉期に駿府城主の中村一氏、関ケ原の戦い以後に再び家康家臣の天野康次が1万石をもって在城した。現在の遺構は天野氏期による大改造といわれているが、近年の発掘調査で北曲輪に新たな堀と畝状障壁が見つかり、北条氏極意の障子堀ではないかと話題になった。(静岡古城研究会会長 水野茂)