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【維新伝心150年 士族反乱の地を行く】(3)西南戦争(上)(明治10年)

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【維新伝心150年 士族反乱の地を行く】
(3)西南戦争(上)(明治10年)

田原坂公園に復元された「弾痕の残る家」 田原坂公園に復元された「弾痕の残る家」

 雨は降る降る 陣羽(じんば)は濡(ぬ)れる 越すに越されぬ田原(たばる)坂

 民謡にも歌われた田原坂は横幅は3~4メートル、全長は1・5キロ、標高差80メートルのゆるやかな坂道だ。現在の地名では、熊本市北区植木町豊岡の一帯にあたる。民謡にある「陣羽」は「人馬」の意でも歌われる。

 西南戦争最大の激戦地で、薩摩軍は、坂道を登ろうとする政府軍(官軍)を迎え撃った。両軍は明治10年3月4日から17日間、文字通りの死闘を繰り広げる。

 維新の英傑、西郷隆盛は明治6年に下野した。鹿児島の私学校党が西郷を担ぎ、決起した。薩摩軍には九州各地の士族も加わった。

 一方、官軍は「鹿児島県逆徒征討」の詔をもって、鎮圧に乗り出した。

 内乱だった。薩摩軍約3万人、官軍約6万人が動員され、両軍合わせて約1万4千人が戦死した。この4分の1が、田原坂で最期を遂げた。

 田原坂の歴史は、戦国武将で熊本城を築いた加藤清正にさかのぼる。清正が防衛の要として整備した。

 道を凹形に深く掘り込み、坂の両端には土塁を積み上げた。坂道を通る敵をそんな隘路(あいろ)で討つという発想だった。

 熊本に大規模な軍隊が北から入れる唯一の陸路で、地理的にも重要だった。

 清正の没後、260年余りが過ぎた。西南戦争で薩摩軍は、熊本城を包囲する。官軍は援軍を送り込むにも田原坂をぜひとも攻略しなければならなかった。

 薩摩軍は清正が作った地形を利用し、陣地を築き、防御力を高めた。坂のふもとには豊岡眼鏡橋がある。官軍はそこから、南に向かい、坂を登ろうとした。

 今、その地に立つと、沿道にはミカン畑や、鬱蒼(うつそう)と茂る竹やぶが広がる。まさに防御に適した地形だと実感できた。

 坂道は一見、なだらかだが、坂の頂までは一の坂、二の坂、三の坂と曲がりくねった道が続く。曲り角や左右の高所に身を潜めば、銃で敵に狙いをつけるのは困難ではなかった。

 田原坂では、一日に数十万発ともいわれる銃弾が両軍の間で飛び交った。砲弾も降り注いだ。

 付近の土中からは現在も銃弾が多数、出土する。弾同士が空中で激突した「かちあい弾(たま)」も見つかった。

 田原坂の頂上辺りに田原熊野座神社が鎮座する。和銅3(710)年に創建されたと伝わる。境内は樹木に囲まれる。本殿と拝殿を氏子らが管理する。

 薩摩軍は、その一帯に「田原坂北之手松山台場」と呼ぶ陣を構えた。じわじわと坂道を攻め上がる官軍の攻撃目標となった。

 境内の一角に、伐採されたスギの大木がある。説明用の看板によると、木の内部からは銃弾や砲弾片が見つかったとある。

 「3年前の台風で一部が折れ、危険だから伐採した。その後、熊本市の文化財保護の担当者が金属探知機で調べると反応がみられた。木を削ると、銃弾などが埋まっていた。西南戦争から140年がたち、すっかり幹も太り、外からは見えなくなったのでしょう」。氏子の古財義範氏(76)はこう教えてくれた。

 社殿は田原坂の戦いで焼失したが、境内の木を活用し、再建した。社殿の柱などからも、数多くの銃弾が見つかる。古財氏は「それこそが、当時の激戦の生き証人なのです」と語る。

 熊本市の発掘調査で、境内からは銃弾や薬莢(やっきょう)など1千点を上回る遺物も出土している。

 その分布状況から、両軍の戦況が推察できる。熊本市文化振興課の美濃口雅朗氏(57)は「両軍の陣の間はわずか50メートルほど。そんな緊迫した状況下で激闘があった」と語った。

 坂の頂上には「田原坂公園」が整備された。ツツジや桜の名所として、いまや市民の憩いの場に様変わりした。園内には戦没者慰霊塔や田原坂資料館が立つ。

 館内には両軍の武器や装備品などが展示され、戦闘シーンのジオラマもある。美濃口氏は「一定の科学調査に基づき、激戦をより、リアルに感じてもらえるはずです」と語った。

 西南戦争は日本初の本格的な近代戦だった。同時にに、日本刀が実戦で活躍した最後の戦いでもあった。

 薩摩軍は刀による接近戦を積極的に仕掛けた。銃弾不足が大きな理由だったが、士族としての矜持や、明治政府への憤りを刀に託す思いもあっただろう。

 薩摩藩の古流剣術「示現流」独特の甲高い掛け声を発し、敵陣に斬り込んだ。

 一方、官軍は戦い慣れていない平民出身者が少なくなかった。銃剣を使ったが、練度は低く、白兵戦では太刀打ちできなかった。

 官軍では初代大警視(現在の警視総監)を務めた川路利良(かわじとしよし)が、士族出身が多い東京警視本署の部隊「警視隊」を率いた。そこで、特に剣術に秀でた者を集めた「抜刀隊」などが編成され、対抗した。その活躍もあり、官軍は薩摩軍から田原坂を奪取し、熊本進軍の突破口を開いた。

 明治18年、軍歌「抜刀隊」ができる。東京大教授、外山正一(まさかず)の「抜刀隊の詩」に、フランス人の音楽家、シャルル・ルルーが曲を付けた。

 抜刀隊の奮戦を扱った曲ではあるが、西郷を「古今無双の英雄」、薩摩軍を「剽悍(ひょうかん)決死の士」と表現した。庶民にも広く愛唱された。西洋のメロディーによる、わが国で最初の流行歌だと伝わる。

 翌年にはこの曲を基に、「(陸軍)分列行進曲」が作られた。帝国陸軍の公式行進曲に採用された。

 田原坂の戦闘をきっかけに生まれた曲はいまも、陸上自衛隊や、警視庁をはじめ全国の警察の行進曲として受け継がれている。(谷田智恒)