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【維新伝心150年】士族反乱の地を行く(1)秋月の乱 地方士族の連携ならず

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【維新伝心150年】
士族反乱の地を行く(1)秋月の乱 地方士族の連携ならず

 福岡県朝倉市の中心部から北東へ7キロほど入った山間の盆地に、秋月(あきづき)はある。

 江戸時代、福岡・黒田家の支藩として栄え、今も城下町の風景が色濃く残る。

 メーンストリートから小道に入ると、田中天満宮や西福寺跡がある。いずれも、明治9年に起きた秋月の乱ゆかりの場所だ。

 同年10月24日、熊本で敬神党(神風連)の乱が起きた。熊本鎮台の司令官や県令を殺害したが、翌日には新政府軍に鎮圧された。

 だが、秋月から熊本に派遣された使者が、初日の様子だけを見て、急ぎ帰郷し、「敬神党が勝利した」と報告した。

 これが導火線となった。同月27日朝、秋月党は兵を挙げる。250人ほどだった。

 「秋月士族は、決して心意気だけで出兵したのではない。戦略を立てていた」と、朝倉市秋月博物館の学芸員、福田正氏(41)は語る。

 作戦はこうだ。

 佐賀や豊津(福岡県みやこ町)といった近隣の不平士族に働きかけ、同志を増やす。その後、関門海峡を渡り、萩の前原一誠(まえばら・いっせい)の党と合流する。不平士族を糾合(きゅうごう)し、政府を攻撃する。

 兵はまず秋月街道を北進し、豊津に向かった。街道は現在の国道322号とほぼ同じルートを通る。八丁峠に大隈、猪膝(いのひざ)と、秋月党が通った地名は今も残る。

 蜂起から2日後、豊津に着いたところで、誤算が生じる。豊津の士族が秋月党に同調しなかったのだ。

 豊津士族は幕末、長州藩に敗れた小倉藩の武士だった。敗戦が何たるかを知る彼らの目にはわずか250人の秋月党が成功するとは思えず、呼応する気にはなれなかったのだろう。

 談判のさなか、小倉の鎮台分営から乃木希典(のぎ・まれすけ)の率いる兵が到着し、戦闘となる。

 秋月党は死者17人を出し、敗走した。決起した中心人物、磯淳(いそ・あつし)や宮崎車之助(しゃのすけ)ら7人は部下には寛大な処分を求める遺書をしたため、栗河内(くりごうち)(現・朝倉市)で自決した。

 昨年10月に開館した朝倉市秋月博物館には、磯らと自害した戸波(となみ)半九郎の遺書と、辞世の句がある。

 遺書では「両親に先立つ不孝を許してほしい」と記し、辞世の句はこう詠んだ。

 「今更にいふ 言の葉も なかりけり すてゝ かいなき この身 なくとも」。

 身命を賭(と)した挙兵だったことがうかがえる。

 現地の案内板を頼りに、田中天満宮や西福寺跡を訪ねた。天満宮には出兵の前日、士族が参集した。そこで隊長となる今村百八郎は「熊本も既に立ち、萩も立とうとしている。今ここに義兵を挙げる」と、周囲を奮い立たせたと伝わる。

 推定樹齢400年のイヌマキも立つ。歴史の証言者として、小高い丘から地域を見つめ続ける。

 書籍に残された戦闘状況によると、秋月兵の武器は旧式の銃や槍(やり)、長刀などで、政府軍は新銃を使っていた。差は歴然だった。

 各地の不平士族らで連携もできず、「第2の維新」とはならなかった。

 秋月の乱から4カ月後、西郷隆盛をかついだ薩摩士族が挙兵する。もはや秋月には西郷軍に応じる余力は残っていなかった。 (高瀬真由子)

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 薩摩や長州、土佐、肥前の武士が主導し、倒幕・維新が実現した。ところが、新政府は急速に激しい社会変革を断行する。士族となった武士は明治4(1871)年の廃藩置県などで、生活基盤や特権を失った。

 九州・山口の士族は、かつての同僚らで構成する新政府に強い不満を抱き、やがて政府に反し、武装蜂起した。維新から150年。士族反乱の地を歩いた。