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【自慢させろ!わが高校】鹿児島県立鶴丸高校(上) 羨望されたおおらかな雰囲気

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【自慢させろ!わが高校】
鹿児島県立鶴丸高校(上) 羨望されたおおらかな雰囲気

渡り廊下につながる「シンデレラ階段」を懐かしむ卒業生は多い 渡り廊下につながる「シンデレラ階段」を懐かしむ卒業生は多い

 ■受け継ぐ思い「他の人のために」

 JR鹿児島中央駅から北西へ約800メートル。住宅街の一角に、鹿児島を代表する高校がある。正門からみると、左右に分かれた校舎を、渡り廊下がつなぐ。門からその渡り廊下に向かう階段は、いつのころからか、「シンデレラ階段」の愛称で親しまれる。確かに、絵本や映画でシンデレラが駆け下りる階段に、見えなくもない。

 校名は旧薩摩藩主、島津家の居城「鶴丸城」に由来する。学校の歴史も、藩校「造士館」の流れをくみ、鹿児島の高校で最も古い。

 124年前の明治27年、鹿児島県尋常中学校、後の県立第一鹿児島中学校が開校した。そして同35年、県立第一高等女学校が創立した。

 昭和24年、両校が統合し、男女共学の県立鶴丸高校が産声をあげた。当初、鹿児島市加治屋町の旧一高女の校舎を使い、39年に現在地(同市薬師)へ移転した。

 「統合に際して、校名の候補に『第一』『中央』『造士館』などたくさん挙がったそうです。ただ、平和と穏健の象徴として、藩学の伝統を継承する学校として、鶴丸に決まったと聞きます」。卒業生でもある教頭の新留克郎氏(50)=37回生=は、こう話した。

 歴史を誇る高校の校風はどうか。卒業生は「自由だった」と口をそろえる。

 鹿児島県議の藤崎剛氏(44)=43回生=は「自分たちの頃は『カップル鶴丸、地獄の甲南、団訓の中央』といわれていた」と振り返った。

 鶴丸生はカップルで西鹿児島駅(現・鹿児島中央駅)へ楽しそうに歩く姿が多く見られた。

 一方で、甲南の生徒は「勉強しろ!」と教師陣に追い立てられ、中央は週に1度の厳しい団訓(団体訓練)をこなす。そんな校風の違いから、このフレーズができたという。

 「鶴丸には、他校の生徒がうらやましがるような雰囲気があった。もっとも私は、全く女子と縁がなかった」。藤崎氏は笑った。

 柔らかな雰囲気は、戦中にもあった。

 須佐美新氏(85)=2回生=は昭和20年、旧制第一中学へ入学し、26年に鶴丸生として卒業した。校舎や家は戦災で焼けた。

 「先生に厳しい人はおらず、威圧的でもなかった。3年に進級するときの遠足に、なぜか同級生が焼酎をもってきた。生徒と酒盛りをし、先生が踊ったのを覚えている」

 須佐美氏は下戸なので、飲まなかった。東京教育大(現筑波大)へ進学し、教師となった。昭和31~48年の17年間、国語教師として母校の教壇に立った。

 教師時代のある日、自宅で休んでいると、同級生から電話があった。聞くと、鹿児島の繁華街・天文館で飲んでいるという。

 「お前の教え子も、ここで飲んでる」

 電話を代わってもらい、生徒に「早く帰れよ」とだけ言った。

 「教師と生徒の関係はおおらかで、教師は大事(おおごと)になる前に止めれば良いと考えていた。生徒もある程度で自制が効く。私は教師であると同時に、高校の先輩でもあり、後輩を処罰するのは嫌だった」

                ■ ■ ■ 

 鹿児島県医師会会長の池田琢哉氏(71)=16回生=が在籍していた昭和39年3月、学校は薬師へ移転した。その光景を覚えている。

 生徒は、机やいすをトラックに運び込んだ。その後、新たな校舎へ歩いた。

 「新しい校地は当時、整備途中だった。植木もなく閑散としていた。グラウンドもすぐに使えず、体育の時間は石拾いばかりだった」

 塀を飛び越えて、買い物や食事に行く生徒もいたという。

 当時、鶴丸には十数年連続で勤務する名物教師が、たくさんいた。

 ある数学教師は、問題が解けなかった男子生徒の坊主(ぼうず)頭に、赤マジックでいたずら書きをした。

 筋骨隆々、マッチョな英語教師もいた。池田氏らが呼び掛け、器械体操部の男子部ができた際、指導役はこの英語教師だった。

 「生徒が誰もできないつり革の演技を、先生だけはできた。あこがれだった」

 自由な校風といっても、生徒は勉強に熱心だった。

 象徴する出来事がある。昭和25年4月。入学式翌日の対面式で、当時の生徒会長が新入生に、短い言葉でいった。

 「鶴丸は勉強するところなり」

 実際、鹿児島県の公立高校の中で、進学実績はトップクラスだ。平成30年春をみると、東大9人、京都大6人、九州大41人、鹿児島大92人-。国公立大に257人が合格し、うち医学部医学科は34人を数える。

                ■ ■ ■ 

 幕末、島津藩主の斉彬は藩校・造士館の改革に乗り出した。

 「学問は実際に世の中に活用され、人の生きる道に役に立つようにすべきだ」

 それまで造士館で教えるのは儒学だった。斉彬はそこに、日本の古典や歴史、西洋科学などを加えた。時代を担う人材育成が目的だった。

 斉彬の思いは、現代に続く。

 学校の中庭に校是「For Others」が刻まれた石碑がたたずむ。

 「他の人のために」。昭和40年、5代校長の栗川久雄氏が提唱し、翌年、生徒規範に盛り込まれた。12条からなる生活規範を「ミニマム・エッセンシャルズ」、つまり「最低限の教育内容」と称することも、鶴丸の校風を象徴する。

 その最終項目にはこうある。

 「3年間のうちに、数は少なくてもいいから、生涯かけて喜びも悲しみも共にし得る親友をつくること。そのためには、友人同士心の底から敬愛し合い、やがて家族ぐるみのつきあいまでもってゆくことが必要である。わるふざけをしたり、相手の心身の欠点をあげつらったりしてはいけないことは、言うまでもない」 (谷田智恒)