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【平成の商業施設はこうして生まれた】キャナルシティ博多(4)

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【平成の商業施設はこうして生まれた】
キャナルシティ博多(4)

キャナルシティ博多開業を祝し、テープカットする関係者。中央右はダイエー創業者の中内功氏、中央左が榎本一彦氏 キャナルシティ博多開業を祝し、テープカットする関係者。中央右はダイエー創業者の中内功氏、中央左が榎本一彦氏

 ■「時間と情熱をかけ造り上げよう」 テナント集めに奔走…よぎる計画中止 

 平成5年6月3日、キャナルシティ博多の建設が始まった。すでにバブルは崩壊していた。

 多くの人々は、しばらくすれば景気は回復すると思っていた。同年7月の経済企画庁の年次経済報告でさえ、「年後半からは回復への動きを示す」と記した。

 後に「失われた20年」と呼ばれる、暗く長いトンネルの入り口にいる。そう気付く人は少なかった。

 福岡地所が着工を決断した理由の一つが、建設資材や金利が安くなったからだった。「景気が回復すれば、また資材が高騰する。今しかない」。福岡地所社長の榎本一彦(74)=現会長=らは、そう考えた。

 総事業費800億円。榎本は、メインバンクの福岡シティ銀行(現西日本シティ銀行)をはじめ、複数の金融機関に掛け合い、資金調達にめどをつけた。

 福岡・住吉に工事の音が響き始めた。だが、榎本や、プロジェクトを率いる藤(とう)賢一(68)=現福岡地所特別顧問=は、テナント探しという、長いトンネルを通ることになる。

 キャナルシティ博多の商業ゾーンは、地下1階から地上5階に広がる。計250もの店舗を計画していた。このうち、ファッションを中心とした170あまりの店舗は、核テナントとなるダイエーグループに依頼していた。

 藤は、残りのリーシング(テナント誘致)に取りかかった。

 その頃、天神地区では西日本鉄道による十数年をかけた「天神ソラリア計画」が進んでいた。九州最大の繁華街が、さらに大きくなる。半面、キャナル周辺には商業施設の実績はない。

 「景気が悪い中ですから、投資は絞っています。福岡で店を出すなら天神です」

 藤はそんな声を聞き続けた。報告を受ける榎本も内心、焦りが生じた。

 「テナントが決まらないまま、8年4月の開業を迎えたら、どうなるんだ」

 テナントが入らなければ、800億円もの大金をかけて、空き家をつくるに等しい。会社は終わる。

 榎本は近くの上川端商店街振興組合理事長、正木計太郎(82)=現顧問=に相談した。「計画を変更して、マンションにするわけにはいかんでしょうか」

 福岡地所は当初、マンション建設を考えていた。だが、博多再興には商業施設が必要だと計画を転換し、影響を受ける地元商店街の正木らを説得したのだった。

 その榎本が、「やっぱりマンションで…」と再変更を言ってきたのだ。

 「よほど苦しいのだろう」。正木は榎本の心中を察し、落ち着かせるように言った。

 「榎本さん、それは違う。地域振興のために、鐘紡さんから土地を譲り受けたんでしょう。頑張ってください」

 藤も苦悩していた。

 着工後のある時、藤は福岡シティ銀行頭取の四島司(1925~2015)を訪ね、切り出した。

 「計画を中止してはどうでしょうか」

 四島は、榎本の叔父だ。計画初期からプロジェクトを後押しした。行内では、融資に慎重な意見もあった。それでも「計画は練りに練られている。厳しい時期だが、ピンチはチャンスに変わる」と決断した。

 その四島に、計画中止を進言するほど、藤は追い詰められていた。

 鐘紡の土地を取得したのが昭和55年。すでに15年近くたっている。

 「福岡地所はやる気があるのか」「おたくのボスの榎本さんは、嘘つきだね」。陰に陽に、そんな言葉を投げ付けられた。悔しさに体を震わせた。

 その藤を前に、四島は静かに言った。

 「まちづくりは時間がかかるんだ。100%完成しなくても、人を感動させることはできる」

 この言葉に、藤は救われた。「開業時は未完成でも良いんだ。時間と情熱をかけて、感動させる街を最後まで造り上げよう。国内企業がだめなら、海外企業だってある」

 前向きな気持ちが、運を呼び寄せた。

                 × × ×

 藤は米国の映画館チェーン大手、AMCエンターテイメントの幹部に声をかけた。

 中国訪問に合わせて福岡に寄ってもらい、キャナルシティの予定地を見せた。感触は悪くなかった。

 藤はロサンゼルスのAMC事務所に赴き、交渉を重ねた。

 「15スクリーンを用意するなら、出店を検討する」

 その言葉を聞いた藤は、榎本に国際電話をかけた。「映画館が入りますよ。2700坪(約9千平方メートル)確保してください」

 榎本は耳を疑った。「270坪の間違いじゃないか」。当初は4、5スクリーンの映画館をつくる計画だった。AMCの要望を聞くには、設計を大幅に変更しないといけない。

 しかし、開業まで2年もない。覚悟を決めた。

 「入るんだったら用意する。AMCを連れてこい!」

 オフィス棟予定地を、複合型映画館(シネマコンプレックス)にすることにした。

 平成6年12月、AMC進出が正式に決まった。米国の設計事務所「JPI」と協議し、13のスクリーンを設ける案が決まった。客席計2600の日本最大級のシネコンだ。ニュースは新聞やテレビで、大々的に報じられた。

 風向きは変わった。米国のアウトドアショップや香港の中華料理店など、外資系の進出が決まった。国内でも「無印良品」で知られる良品計画や、大手ゲーム会社のセガグループが入ることになった。

 核テナントのダイエーも、リーシングに苦戦していた。同社はアウトドア用品中心の直営店「メガバンドール」と、専門店を集積した「OPA(オーパ)」を入れる計画を立てた。

 だが、開業予定まで1年を切っても、計画する170店のうち、100以上のテナントが決まらない。

 オーパのリーシング部隊約20人は、候補のテナントをリストアップし、片っ端から声を掛けた。

 その一人、田中勉(65)=福岡地所元常務=は、週30~40社に足を運んだ。テナント社長から「中洲で飲んでるから来い」と誘われれば、深夜でも行った。

 立地に難色を示す企業には地図を示し、「博多駅にも天神にも歩いていけます。広いスペースを確保しますので、地域の旗艦店として入ってください」とアピールした。施設の斬新さを、プロモーションビデオを使って力説した。

 ゴールが見えたのは、開業予定の8年4月の直前だった。

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 キャナルシティ博多は、買い物だけでなく、楽しく時間を過ごせる「時間消費型」施設を掲げた。目玉の一つが、劇団四季の常設劇場だった。

 四島の構想だった。四島は芸術や文化に造詣が深い。「プロ野球と大相撲の本場所、プロの演劇集団は一流都市に欠かせない」。そう考えていた。

 昭和63年に福岡にダイエーホークスが発足した。大相撲九州場所もある。足りないのは演劇だ。四島は劇団四季代表の浅利慶太=30年7月13日死去=に、専用劇場をつくろうと声を掛けた。

 2人はともに慶応大の出身だったが、それだけではない。

 四島は平成2年、福岡市内であった「キャッツ」の公演に全面協力した。7カ月のロングランで、観客数は23万人に達した。

 「地方で舞台芸術を楽しむ観客を掘り起こそう。福岡は可能性がある」。浅利もキャナル進出を決めた。

 劇団四季で九州地区の営業担当だった佐々木典夫(70)=現会長=は、劇場づくりと集客に奔走した。

 「年間を通じてのお客さんは、どれだけいるだろう」。キャッツ以前にも、劇団四季は福岡公演をしていたが、集客にとことん苦労した。そんな思い出もあった。

 それでも佐々木は気合を入れた。「劇場文化を広げるためにやるんだ」

 四島の呼びかけに応じ、九州電力など福岡の主要企業でつくる任意団体「七社会」も協力した。福岡市長の桑原敬一(1922~2004)もバックアップした。

 「福岡の人は本気になって一緒にやってくれる」。佐々木は心強く感じた。経済界や行政との連携は、常設劇場を他の地方に展開する上での収穫となった。

 平成8年4月20日午前10時。キャナルシティ博多に、グランドオープンを告げる花火の音が響き、噴水が上がった。

 人の波が、巨大な建物を埋め尽くした。来場者は20万人を記録した。

 商業施設の空白地帯だった場所にキャナルシティが建ち、天神と博多駅、そして川端商店街をつなぐルートができた。

 「嘘つき」とまで呼ばれた榎本や藤らが、街の人の流れを変えた。福岡地所は地場デベロッパーとして地位を確立した。 (敬称略)