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【平成の商業施設はこうして生まれた】キャナルシティ博多(3)

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【平成の商業施設はこうして生まれた】
キャナルシティ博多(3)

キャナルシティ博多と上川端商店街を結ぶ歩道橋。福岡中央銀行の建物内を通っている(左奥) キャナルシティ博多と上川端商店街を結ぶ歩道橋。福岡中央銀行の建物内を通っている(左奥)

 ■共存で商店街を生き返らせる 車売って「夢のかけ橋」づくり

 「そんな大きな商業施設ができれば、飲み込まれるかもしれん」

 昭和55年、上川端商店街振興組合専務の正木計太郎(82)=現顧問=は、商店街のすぐ近くで浮上したプロジェクトに、不安を覚えた。

 福岡地所が、商店街南側の鐘紡跡地3万5千平方メートルに、巨大な商業施設を建設しようと掲げたのだった。

 日本各地で、商業施設の大型化が進んでいた。庶民の買い物を支えてきた商店街に、影響が出ていた。

 「絶対に客が取られますよ」。約100店が連なる上川端商店街でも、大型商業施設を敵視する店主は、少なくなかった。組合専務として、こうした意見を福岡地所に伝えた。

 ただ、正木の内心は、反対一辺倒ではなかった。

 正木が20代のころ、商店街は1日2万~3万人の客でにぎわった。11月のセール「せいもん払い」は風呂敷を持った客でごった返し、人がすれ違うのもやっとだった。

 昭和38年、博多駅が南に移転した。50年には、商店街近くを走っていた路面電車が廃止された。客は1日3千人に減った。

 がらんとした店の前で、子供らはスケートボードで遊び、店員がキャッチボールをしていた。

 「このままでは廃れる一方だ」。正木は危機感を強めていた。

 正木のもとに、福岡地所の藤(とう)賢一(68)=現特別顧問=が何度も訪れた。プロジェクトの責任者だった。

 藤は訴えた。「あなたたち商店街の人々が、山笠やどんたくを支えてきた。商店街の衰退は、博多の衰退を意味する。今度つくる商業施設は、博多を盛り上げるためなんです。どうすれば共存できるか、話し合いたい」

 商店街、そして博多を心配する言葉だった。正木は胸を打たれた。

 「開発計画に背を向けるだけで良いのか。商業施設とうまくつながれば、商店街の衰退を食い止めることができるかもしれない」

 正木と同じ思いの組合役員は、他にもいた。宣伝部長の原公志(こうし)(78)=現顧問=だった。

 「遠くから人が来るような、良い商業施設をつくってほしい。私たちにとって賭けだが、動かなければ何も変わらない」

 原の幼少期、商店街周辺は美しかった。那珂川のほとりには、春は菜の花畑、夏はカボチャ畑が広がった。料亭から流れる三味線の音を聞きながら、川遊びを楽しんだ。

 そんな風景は、がらりと変わった。歓楽街・中洲のネオンばかりが目立ち、商店街は寂しくなっていた。

 活気を取り戻そう-。組合は協議を重ねた。一つ先例があった。商店街から数百メートル西の天神地区では、大型商業施設が次々に誕生した。それでいて、近くの商店街「新天町」は施設と共存し、にぎわっていた。

 「大型施設を競争相手ではなく、パートナーととらえ、歩調を合わせる道を歩もう」。組合は決断した。正木らは福岡地所に思いを伝える中で、一つの条件を提示した。

 「商店街と施設を結ぶ歩道橋をつくってほしい」

                 × × ×

 鐘紡跡地と商店街との間には、国道202号をはじめ、車通りの多い道があった。往来には横断歩道を何度か渡る必要がある。

 歩道橋で福岡地所の施設と直結されれば、商店街に客が来やすくなる。共存に向けた第一歩だった。

 福岡地所は提案を受け入れた。建設する歩道橋を「夢のかけ橋」と名付けた。

 いくつか課題があった。

 商店街と施設の最短ルート上には、国道北側に面した正金相互銀行(現福岡中央銀行)の支店があった。

 藤らは、支店長を訪ねた。「この建物の2階に、歩道橋を通させてほしい。支店を建て替えてもらえませんか」

 厳重なセキュリティーが求められる銀行内部に、歩道橋を通す。むちゃくちゃな提案だ。一蹴されてもおかしくない。だが、支店長は「地元で生まれ、地元を支える銀行ですから」と、話を聞いてくれた。

 歩道橋実現へ正木も動いた。銀行社長の中山一三(かずみ)(1911~2002)にかけ合った。中山は高校の先輩だった。

 中山は福岡銀行常務から正金相互社長になり、同社の経営再建に当たっていた。開発プロジェクトは、福銀のライバル・福岡相互銀行(現西日本シティ銀行)が支援していた。にも関わらず、中山は「地域振興のために」と、建て替えを了承した。

 国道北側の課題は解決したが、南側にも乗り越えるべきハードルがあった。

 ホンダの販売店が立っていた。歩道橋を通すには、この土地を買収する必要があった。

 ホンダ側は簡単には譲らなかった。福岡地所社長の榎本一彦(74)=現会長=は、驚きの一手を打った。

 「私たちがホンダさんの車を売ります。販売成績が九州一になったら、土地を譲ってください」

 半信半疑のホンダ側をよそに、榎本は販売子会社を設立し、社員をディーラーに転身させた。売るだけでなく、藤ら社員は展示自動車を買った。

 新設した販売会社は、九州一となった。ホンダ側は同じ福岡市内への移転を了承し、歩道橋計画が前に進んだ。

 再開発計画に関わる福岡市との協議の結果、最終的に土地は市が買収した。歩道橋に接して市のポンプ場と小劇場が建った。

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 大型商業施設の建設には、大規模小売店舗法(廃止)に基づく、周辺地域の小売業者との調整が必要だった。

 影響を受けるのは、上川端商店街に限らない。福岡地所の社員は、各地の商店街へ説明に走った。

 「福岡地所だけでは難しいだろう。俺たちも一緒に動こう」。上川端商店街の役員も、他の商店街の説得に協力した。

 福岡地所と商店街関係者は、西は佐賀県唐津市、東は福岡県宗像市、南は同県久留米市まで説明に回った。時間はかかったが、最終的に条件をクリアした。

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 平成5年6月、商業施設の建設が始まった。米国の建築家、ジョン・ジャーディが手掛けた奇抜な施設の名称をめぐり、一騒動あった。

 榎本の腹案は「キャナルシティ福岡」だった。

 日本はバブル経済が終わり、中国などアジア各国の存在感が高まっていた。

 「新しい施設の商圏はアジアだ。それには博多よりも福岡の方が知名度がある」。榎本はそう考えた。

 藤は「キャナルシティ博多」と考えていた。博多再興を掲げる施設に、博多の名を冠するのは当たり前だった。

 歴史的経緯から、福岡市は大きく2つに分かれる。

 那珂川を挟んで東は商人の町・博多であり、西は城下町・福岡と呼ばれる。それぞれ地元意識は強い。

 榎本は福岡側にある県立修猷館高校出身、藤は博多側にある県立福岡高校出身だった。

 博多で生まれ育った人間は、「福岡ですね」と言われれば反発する。逆もしかりだ。それほど心の深いところで、名称へ愛着をもっている。

 藤は行動に出た。

 あるとき、施設紹介の文書を発注した。その数、10万部。できあがりを見た榎本は目が点になった。「キャナルシティ博多」と記されていた。

 藤を怒鳴りつけた。

 「ばか、お前。間違っとうやないか!」

 もちろん、わざとだと分かっていた。一瞬かっとなったが、藤の思いに降参するしかなかった。名称は「博多」に決まった。

 原ら商店街側も、施設オープンに向けて、大々的な宣伝を展開した。

 「川端通は、キャナルシティ博多への楽しい近道です」。こんなキャッチフレーズで、テレビCMや電車、バスの中釣り広告を出した。

 名付けて「とおりゃんせ計画」。商店街を通ってほしいという願いと、キャナル誕生ムードを醸成した。

 正木らが願っていた通り、キャナルシティ博多は、店主の意欲に火を付けた。改装に取り組む店主も増えた。

 「新しいプロジェクトが、古い商店を生き返らせる。後は、店が客をつかまえる知恵を絞ればいい」

 上川端商店街の通行量は今、1万5千人以上に復活した。店舗の新陳代謝も進み、海外からの旅行者でもにぎわう。 (敬称略)