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【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】三崎城(三浦市) 広大な城跡は開発で様変わり

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【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】
三崎城(三浦市) 広大な城跡は開発で様変わり

 伊勢宗瑞(早雲)が永正13(1516)年7月、新井城(神奈川県三浦市)に3年間籠城(ろうじょう)した三浦道寸(義同(よしあつ))を滅ぼした後、嫡男(ちゃくなん)の北条氏綱は江戸城を制圧して房総の里見氏攻めを本格化させた。すると、北条水軍と里見水軍は狭隘(きょうあい)な浦賀水道を挟んで激甚な戦いを繰り広げた。

 三浦半島の浦賀城(横須賀市)や三崎城を主力策源基地とした北条水軍には、旧三浦氏家臣を取り立てた「三崎十人衆」という三浦海賊衆もいた。三崎城は弘治2(1556)年10月、三浦に上陸し金沢(横浜市)まで侵入した里見水軍の攻撃を受けて苦戦したという。

 この戦いで、北条氏康が発給した感状には紀伊国(和歌山県)を本拠とする梶原、愛洲、安宅、橋本各氏の熊野海賊衆が含まれていた。北条氏はかなり遠方の海賊衆までも雇用して東京湾岸に配備し、里見水軍との戦いに備えていたことが分かる。三崎城末期の城主は伊豆韮山城主の北条氏規で、伊豆水軍までも配下に置いていた。主従関係から伊豆田子(西伊豆町)を本拠としていた伊豆海賊衆の山本太郎左衛門家次の史料は多く見られる。西伊豆の富永三郎左衛門(伊豆市)も船大将として三崎城へ配属され、伊豆衆は三浦衆の下で仕えていた。

 三崎城は三浦半島南端の城ケ島を衝立とした環境にあり、北条湾を抱えた丘陵上に築かれていたが、近年の開発で小中学校や体育館などに大きく様変わりしてしまった。東西350メートルを超える広大な城跡には馬出、枡形虎口、折状大土塁などがあり、先学は技巧を多用する北条流極意の縄張りであったと指摘している。

 浦賀水道を挟んで里見氏と対峙(たいじ)した、北条・三浦水軍の最大拠点だったのに、開発を優先したことは極めて残念なことである。

 (静岡古城研究会会長 水野茂)