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【平成の商業施設はこうして生まれた】キャナルシティ博多(1)

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【平成の商業施設はこうして生まれた】
キャナルシティ博多(1)

特徴的な建物が人を引きつけるキャナルシティ博多 特徴的な建物が人を引きつけるキャナルシティ博多

 ■「この場所はマンションじゃだめだ」 博多再興に吹いた“強風”

 平成8年4月20日、運河と噴水を囲む「街」が誕生した。

 大胆な曲線と、赤や青、紫や黄のしま模様が施された外壁。キャナルシティ博多(福岡市博多区住吉)を訪れた人々は、想像を超えた建物に目を丸くした。

 国内初・九州初がそろった専門店に、米企業が運営するシネマコンプレックス(複合型映画館)、ホテル、ミュージカル専用劇場…。開業初日に20万人が訪れ、その数だけ、驚きの表情と笑顔があった。

 その前日、施設内で開かれたパーティーでは、開発に当たった男たちが泣いていた。

 「18年かかって、やっと約束を果たせた」。プロジェクトの責任者、エフ・ジェイ都市開発社長の藤(とう)賢一(68)=現福岡地所特別顧問=は、涙で言葉が続かなかった。

 「最高にときめきを感じる」。福岡地所社長の榎本一彦(74)=現会長=の目にも光るものがあった。

 プロジェクトの起点は、昭和52年12月。地場デベロッパーの福岡地所が、鐘紡の工場跡地を取得したことで始まった。

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 「福岡の中心地が売りに出されています」

 藤は52年、不動産業者からこんな話を聞いた。福岡市博多区住吉1丁目。鐘紡工場跡地の一部、1万平方メートルの土地だった。

 福岡地所は、福岡市内でマンション事業をしていた。日本経済は第1次石油危機を乗り越え、安定成長に入っていた。

 不動産取引は活発で、福岡地所のマンションも人気を集めた。入社5年目の藤は、用地を探す中で、工場跡地にたどりついた。

 鐘紡は戦前、日本最大の企業だった。各地に大きな工場を有したが、繊維産業の衰退とともに、撤退した。福岡・住吉の工場跡地は、全体で3万5千平方メートルにもなる。工場閉鎖後は、プールやゴルフ練習場になっていた。

 その土地の一部が売りに出される。

 福岡地所は500~600戸の大規模マンション建設を計画した。

 鐘紡幹部には、慶応大学出身者が多かった。同窓生の藤が、土地取得の交渉を担当した。何度も大阪本社に足を運び、契約にこぎ着けた。

 ゼネコンの錢高組に発注し、基礎工事が始まった。

 しかし、藤の気持ちは揺らいでいた。「この土地をマンションにして、本当に良いのだろうか」という気持ちが、わき起こった。

 予定地の周辺はかつて、にぎやかだった。櫛田神社や住吉神社があり、川端商店街は人の波をかき分けないと歩けなかった。

 しかし、昭和30年代以降、福岡のにぎやかさは、天神地区に移った。20年6月の福岡大空襲で焼け野原となった天神は、戦後復興で再開発が進み、商業地として発展した。

 一方、住吉では昭和34年、鐘紡の工場が閉鎖され、38年には博多駅が南に約600メートル移動した。

 住吉からみて北にあった百貨店の玉屋は閉店し、大丸は天神に移転した。

 天神に比べ、「博多」は発展から取り残された。

 「昔が懐かしいよ」。そんな住民の声を聞いた。

 藤自身もなじみが深かった。福岡県宇美町の醤油(しょうゆ)屋に生まれ、子供の頃、博多祇園山笠やどんたくを見た。

 「ここら辺は、小さいころお袋が連れてきてくれよった。寂しくなったな」。そう感じた。

 地図に目を落とすと、マンション予定地が、福岡の「へそ」に見えた。歴史や地理を考えれば考えるほど、「この土地に博多復興の宿命がある」と思えた。

 藤はマンション事業に関わりながら、マンション以外の道を探った。

 藤の迷いを、強風が吹き飛ばした。

 建設用地に隣接するゴルフ練習場の大型ネットが、風にあおられて倒れた。

 「ゴルフ場の再開は難しいだろう。残りの土地も売りに出されるかもしれない。計画を中止するなら今しかない」

 藤は榎本に直訴した。

 「マンション建設を一時、止めてもらえませんか。鐘紡から全ての土地を取得すれば、もっと大きな開発ができます」

 鐘紡が残る土地を売り出す確証も、取得できる見込みもなかった。しかし、工事を止めるには、そう言うしかないと思った。

 「もう地鎮祭も終わっとるとぞ。なんで今ごろそげなこというとか」

 文句を言う榎本も、内心ではマンション中止に傾いていた。

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 榎本が率いる福岡地所は、福岡相互銀行(後の福岡シティ銀行、現西日本シティ銀行)の保険代理店として、昭和36年に創業した。

 福岡相互銀行社長の四島司(1925~2015)は、榎本の叔父だった。

 四島は、元気ある若者が大好きだった。

 「産業を興し、地域を担う人物を1万人育てよう」。そう掲げ、若手経営者を集めた勉強会「八日会」を設立した。ロイヤルホストの江頭匡一、三井ハイテックの三井孝昭らが集い、後に日本を代表する経営者に育った。

 四島は、甥の榎本にも目を掛けた。その榎本は藤に目を付けていた。3人は同じ慶応大出身でもあった。

 榎本は福岡の新興企業を後押しする不動産開発会社「開成地所」をつくり、藤を誘った。

 「開成地所」は後に、「福岡地所」に吸収合併された。榎本は54年8月、福岡地所社長となった。

 「東京でできないことを、福岡でやろう。福岡をもっと面白くしよう!」

 榎本や藤らは20~30代だった。無鉄砲ともいえる勢いがあった。怖いもの知らずの「野武士集団」だった。

 仲間の藤が「福岡のへそに、俺たちで何かをつくりましょう」と打ち明けてきたのだ。

 榎本は、野心的な言葉に引かれた。「マンションも良いが、もっとエキサイティングなことはできないか」。野武士集団の頭目、榎本にもそんな考えがあった。

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 榎本は、流通業界の盟主、ダイエーをキーテナントに据えた商業施設を思い描いた。ダイエーの店舗展開を担った縁で、創業者の中内功(1922~2005)と懇意になっていた。

 とはいえ、工事費25億円のマンション計画を白紙にするのは、関係者への影響も大きい。

 榎本は四島に相談した。資金の判断は四島が握る。

 四島は「良いじゃないか」と淡々と応じた。

 住吉の再開発を通じて、博多を元気にし、天神と合わせて「面」としての発展を導く。四島はそんな将来図を描いた。

 四島にとっても、博多の再興は大きな課題だった。福岡相互銀行の本拠地は博多であり、天神は、ライバル・福岡銀行の牙城だったからだ。

 榎本は昭和55年3月、マンション中止を決めた。起工式の1カ月後だった。

 榎本は関係者に頭を下げて回った。一方で社員には「福岡を面白くするぞ。中途半端な計画ではだめだ。歴史の半歩先をいこう」と号令をかけた。

 藤はすでに、鐘紡から跡地すべてを取得する交渉に乗り出していた。

 「あの土地を博多に返してほしい。多くの人が歩く明るい場所にしたいんです」。こう訴えた。

 その最中、事件も起こった。

 藤が福岡市内で車を運転していたときだった。見知らぬ車の3人組に、いきなり引きずり下ろされ、頭を鉄の棒で殴られた。藤は大学時代、ラグビー部の主将だった。負傷しながらも1人を捕まえ、警察につきだした。

 襲われた理由は、分からない。しかし翌日は鐘紡との交渉があった。包帯を巻いて出張した。

 藤の熱意に加え、背後から支援する四島や中内の存在が、鐘紡を動かした。

 「福岡の振興に使ってください」。鐘紡幹部は藤に伝えた。

 福岡地所は55年4月、工場跡地約3万5千平方メートル全てを取得し、商業施設プロジェクトを始動した。

 榎本は、社内一バイタリティーを持つ人物を、プロジェクト責任者に据えた。藤だった。(敬称略)

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【用語解説】キャナルシティ博多

 平成8年開業。運営は福岡地所。敷地面積は4万3千平方メートル、延べ床面積は25万2千平方メートル、地下1階~5階。241の専門店や飲食店、映画館や劇場、ホテル、オフィスなどからなる複合施設。23年、イーストビル開業。福岡市博多区住吉1の2。