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【静岡・古城をゆく】狩野城(伊豆市稲本柿本) 伊豆屈指、東西300メートル超す城域

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【静岡・古城をゆく】
狩野城(伊豆市稲本柿本) 伊豆屈指、東西300メートル超す城域

 伊勢宗瑞(北条早雲)は明応2(1493)年、堀越公方の茶々丸攻めの伊豆乱入に際し、真っ向から対決姿勢をあらわにしたのが天城(旧天城湯ケ島町)の狩野道一であった。『北条五代記』では1カ月で平定したとあるが、戦いは足かけ6年に及んだ。

 文書史料からは明応4年、早雲に同心した伊東佑遠の忠功、翌5年の松崎町雲見の高橋氏らの狩野城攻めに対する軍功が知られる。一方の狩野氏も攻められてばかりではなく、反撃に転じていた。

 明応6年には北条軍の柏久保城を攻めたが、守備していた中伊豆の大見三人衆が良く防いだことの軍忠状から、同城が軍事拠点であったことが分かる。この柏久保城から狩野川に沿う5キロ地点に狩野城が見渡せることは、早雲の狩野城攻めが狙いで波状的に敢行されたのであろう。頑強に抵抗を続けていた狩野氏であったが、最後の戦いについては不明で、おそらく柏久保城の戦いの後の6年末頃と推定される。

 道一は戦いに敗れ、旧修善寺町中島で自害したとか、狩野一門の婦女子7人がひそかに逃れようとしたが、落人狩りに遭い全員が殺されたと悲しい伝説が今も伝えられている。

 狩野城は狩野川上流域の柿木に位置し、下田街道を眼下に抑える要地で、同街道をそのまま南下すれば同盟者である関戸氏の深根城に繋がる。城域は東西300メートル以上と広大で、主要部の大土塁、重層的な城道と虎口(こぐち)、幅12~19メートルの堀切と横堀は技巧的で、狩野氏期のものでなく、先学では、その後の小田原北条氏による改造とする見解である。永禄12(1569)年、武田信玄の駿河侵攻に伴い、同盟にあった北条氏の伊豆拠点の韮山攻めに際し改造された可能性が高い。

 近年、狩野城跡は史跡公園化が進み遊歩道が整備され、誘導看板も建てられて散策しやすくなった。伊豆屈指の山城が堪能できるだろう。(静岡古城研究会会長 水野茂)