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【平成のクラシックはこうして生まれた】宮崎国際音楽祭(2)

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【平成のクラシックはこうして生まれた】
宮崎国際音楽祭(2)

立山周平氏のアトリエで平成13年に開かれたパーティーでの記念撮影(税田輝彦氏提供) 立山周平氏のアトリエで平成13年に開かれたパーティーでの記念撮影(税田輝彦氏提供)

 ■「仕上げてみせる」手違い乗り越えた名演

 ■巨匠からMany Thanksのメッセージ

 平成8年3月17日。宮崎市にある宮崎県立芸術劇場の客席に、阪本典弘(56)=現宮崎県病院局次長=がいた。6日前に始まった第1回宮崎国際室内音楽祭は、順調に進んでいた。

 県職員の阪本は、劇場に出向し、音楽祭の物品の手配を担当していた。ステージでは、20日の最終日に向け、弦楽六重奏のリハーサルが始まるところだった。

 だれもいない特等席で、阪本はわくわくしていた。自らクラリネットを演奏するクラシック好き。しかも演奏家6人の左端にいるのは、米国籍で世界的バイオリニスト、アイザック・スターン(1920~2001)だ。

 しかし、演奏家が手にした弓は、微動だにしない。スターンが立ち上がり、舞台の袖へと消えていった。音楽祭の総合プロデューサーで、日本を代表するバイオリニスト、徳永二男(71)が、スターンを追いかけた。

 物品の手配など、自分のミスじゃないか…。阪本は不安になった。

 阪本と同じように、梶本音楽事務所の社員、入山功一(55)=現AMATI社長=も、不安に駆られた。

 入山は、徳永がNHK交響楽団在籍時代からの個人マネージャーだった。音楽祭も、裏方として支えてきた。

 その入山に、スターンと話を終えた徳永が近づいてきた。笑顔だった。

 徳永は、深刻なトラブルのときほど明るく振る舞う。長い付き合いの入山は、よく分かっていた。

 「こんな時は決まって難題が降りかかってくるんだ」。不安は的中した。

 「入山さん。曲が違うみたいなんだよ。スターンは、ブラームスの2番を用意してきたんだ。でも予定は1番だったはずだろ? ちょっとまずいんだ」

 入山は心の中でため息をついた。ちょっとどころか、大変な問題だ。

 演奏家は公演に向けて、時には何カ月もかけて曲を作り上げていく。

 徳永ら日本側の演奏家は、ブラームスの弦楽六重奏曲第1番の練習を重ねてきた。しかし、スターンは2番を練習し、仕上げてきていた。

 どちらに対しても、「違ったから、別の曲でお願いします」と軽く言えるものではない。

 入山は急いで、スターンの楽屋に向かった。

 「どうなってるんだ。私が間違えるわけがない。秘書に確認させろ!」

 怒声が、部屋の外にまで響いていた。

 入山は時差も構わず、ニューヨークにいるスターンの秘書を呼び出し、曲目の交渉記録をファクスで送るよう依頼した。

 並行して、スターン以外の5人の日本人演奏家に、状況を説明した。入山も徳永も、スターンが想定してきた2番をやるしかないと思っていた。

 「準備をしていない曲では、とてもじゃないがやれない。降ろさせてもらう」

 ある出演者は、入山にこう詰め寄った。言い分はもっともだが、必死の説得を続けた。

 1時間後、ファクスが届いた。ブラームスの1番か2番を尋ねた紙には、1番に丸が付いていた。

 入山はこの紙を手に、スターンの楽屋に入った。

 「私が間違っていた。皆に謝らないといけない。ただ、今から1番を準備するのは難しい」

 スターンは徳永ら5人に謝罪した。

 皆、スターンとの演奏を心待ちにしていた。入山に詰め寄った演奏家も、「仕上げていない曲では、とてもスターンさんとは共演できない」というのが本心だった。

 率直に非を認める巨匠の姿に、5人は腹をくくった。「2番、今から仕上げてみせます」

                   ◇

 といっても、楽譜がなければ、練習のしようがない。入山が東京からファクスで取り寄せたが、不鮮明な部分も多かった。

 物品担当の阪本は、現物の確保を急いだ。

 2番は難度が高く、楽譜はあまり出回っていない。「宮崎にあるのか」。阪本の危惧した通り、県内きっての老舗楽器店にも、在庫はなかった。

 半ば諦めつつ、演奏仲間に声をかけた。

 灯台もと暗しだった。県教委福利課の2年目の職員、熱田聡(46)=現宮崎県総合交通課主幹=が、実家に保管していた。

 熱田はバイオリンとビオラを弾く。「いずれ挑戦していみたい」と、大学時代に購入したものだった。

 熱田は佐土原町(現宮崎市)の実家に向かった。楽譜を手にすると、県立芸術劇場に急行した。

 入山や阪本はもちろん、徳永らは、胸をなで下ろした。その後、リハーサルが始まった。

 あと3日で曲を完成させなければいけない。いずれも一流の演奏家が、プライドをかけて音を合わせた。鬼気迫るものがあった。

 スターンもリハーサルに情熱を傾けた。だが、休憩時間になると、初めて訪れた宮崎の地に、ふと思いをはせた。

                   ◇

 音楽祭期間中のある日、スターンは妻と、露店が連なる一角を訪れた。野菜をながめるスターンに、店主が声をかけた。

 「あんた、もしかしてスターンさんじゃないと?」

 英語でのやりとりはできなかったが、店主が自分のことを知っていることは理解できた。「宮崎のアメリカ人」は有名になっていた。

 「クラシックファンだけでなく、街中の人までが自分のことを知っている。宮崎は何とすばらしい街だ!」。スターンは、上機嫌で周囲にこう語った。

 祭りが盛り上がるには、盛り上げ役も必要だ。地元有志が結成した「宮崎タキシード倶楽部」は、その一つだった。

 観光施設シーガイアを運営するフェニックスリゾート専務、浦部晃一(77)が仕掛け人だった。

 浦部は平成7年夏、県生活文化課長、上原道子(74)らとヨーロッパの音楽祭視察に同行した。

 浦部にクラシックを聴く習慣はなかった。コンサート会場には向かわず、街を散策してみた。

 そこで目にした光景に、衝撃を受けた。

 休憩時間になると、ホールから正装した男女が次々に出てきて、コーヒーやワインを手に、音楽談義に花を咲かせていた。音楽が街に溶け込んでいた。

 これを宮崎で根付かせられたら、プロゴルフの大会と並ぶ、大きな観光資源になる-。浦部は直感した。

 帰国後、親交のあった造形作家の立山周平(73)らに声をかけた。

 「今度、県が音楽祭をやる。盛り上げに一役買わないか? タキシードで正装し、コンサートに行くんだ」

 皆、二つ返事で賛同した。演奏家を招いた交流会も催した。

                   ◇

 3月20日。地域に支えられ、盛り上がった音楽祭の最終日がやってきた。

 最後の曲は、ブラームスの弦楽六重奏曲第2番。ステージには、トラブルを乗り越えた6人の演奏家がいた。

 チェロとビオラが哀愁漂う旋律を奏でる。スターンのバイオリンのE線が切れるアクシデントはあったが、曲は先へ進む。曲調は徐々に明るくなり、広がりを増す。晴れた日の宮崎の海岸線のようだった。

 最後の音の残響が、ホールの空間に消える。客席を埋めた1739人の観客は、総立ちとなり、われんばかりの拍手を送った。宮崎県の音楽史に残る光景だった。

 第1回の音楽祭の期間中、人口30万人の宮崎市に、1万1千人の聴衆が来た。大盛況だった。

 「すばらしいリゾートで開かれる音楽祭だ。宮崎は日本のフロリダだ!」。スターンはそんな言葉を残して、宮崎を去った。

 公演後、熱田の手にブラームスの楽譜が戻ってきた。「Many Thanks」。表紙にスターンのメッセージが、書き込まれていた。

 スターンは翌年以降も宮崎にやってきた。平成13年の第6回音楽祭では、期間中に立山のアトリエで開かれたタキシード倶楽部主催のパーティーにも参加した。クラシックとは無縁の地方都市・宮崎の市民と、20世紀を代表するバイオリニストが結びついた。

 スターンは第6回のフィナーレ公演で、モーツァルトのピアノ四重奏曲第2番を演奏した。それから4カ月後の9月22日、活動拠点のニューヨークで亡くなった。(敬称略)