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【大和と雪風】(下)水上特攻 「死ぬはず」が助ける身に 見納めと思った桜

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【大和と雪風】
(下)水上特攻 「死ぬはず」が助ける身に 見納めと思った桜

 昭和18年4月、豊田義雄氏(98)は、戦艦「大和」から駆逐艦「雪風」への転属を命じられた。

 直前、雪風は南太平洋、ガダルカナル島からの撤退作戦に参加した。補給を断たれ、多くの将兵が飢えに苦しんだ「餓島(がとう)」だ。

 その頃、南太平洋の島をめぐる日米の戦いは、激化する一方だった。決戦兵器として温存された大和と対照的に、駆逐艦は攻撃だけでなく、護衛や輸送など、あらゆる任務に駆り出された。雪風も常に最前線にいた。この年の航海距離は、5万キロを超えた。

 「どこへ行くにもこき使われ、奴隷のような気持ちでした。しかも、駆逐艦は装甲が弱く、どこでもやられる。もう終わりかな、と思うこともたびたびありました」

 敵襲を避けるため、夜間に航海することも多かった。乗組員は自嘲気味に「ネズミ輸送」と語った。輸送ではなく、水上戦闘に参加したいと話していた。

 18年7月。雪風はソロモン諸島近くで、護衛艦隊の一員として、物資輸送船を守った。やはり夜だった。

 「航行中、甲板でじっと見守っていました。護衛艦隊の旗艦の探照灯がパッと走り、次の瞬間、周囲は水柱だらけ。砲弾でした」

 敵艦隊と遭遇した。

 「射程までじっと耐え、『発射』の合図で魚雷が次々に海に消えていく。発射方向を見ていたら、水が持ち上がり、火炎が見えた。艦内は『やった』の大歓声です」

 後に「コロンバンガラ島沖夜戦」と呼ばれる戦闘だった。日本海軍は、敵巡洋艦3隻大破の戦果を挙げた。

 雪風はマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦など、主要な戦闘に参加し、そのすべてに生き残った。

 だが、海軍の航空戦力、そして連合艦隊そのものは壊滅した。追い込まれた軍は、特攻に手を出す。戦略戦術の失敗の代償を、若者が命をかけて払うことになった。

 20年1月、雪風は山口県の大津島に向かった。島には、人間魚雷「回天」の基地があった。雪風は訓練の目標艦を務めた。

 訓練を積んだ若者は、硫黄島や沖縄で散った。

 「訓練生はみな私より若かった。きっと、独身で亡くなったんでしょう」

 豊田氏は振り返る。

 だが当時、感傷に浸る余裕はなかった。戦死は「先か後か」の違いだけだと考えていた。

 間もなく、順番がやってきた。20年4月、大和とともに沖縄に突入する命令が下された。いわゆる沖縄水上特攻だ。出撃前に艦隊は、山口県の徳山沖に集結した。

 「戦死しても仕方ない。覚悟はしていました。惜しい命ではないと。でも、雪風から陸上を見たときに、燃料タンク越しに、満開の桜が見えたんです。『これで見納めか』と思うと、なんだか寂しい気持ちになった。今も忘れられません」

 ■海に消えた顔

 瀬戸内海を出発した艦隊の行動は、米軍に筒抜けだった。

 4月7日昼、米軍機の攻撃が始まった。

 空は暗黒色だった。雪風の甲板から、大和に爆弾が命中し白煙が上がる様子がみえた。魚雷で船腹を破られ、徐々に左に傾き、転覆寸前に大爆発が起きた。無意識に、脱出などに使う内火艇の後ろに身を隠した。

 「赤い炎を巻き込んで黒い煙が上がった。その後、海面に大和の姿はなかった。あまりにむごい沈み方で涙も出なかった」

 水面は重油で真っ黒になった。大和から脱出した乗組員だろうか、黒い頭が浮いていた。雪風からロープを垂らし、救助した。大和に乗っていたころの知り合いも、数人いた。

 丸太に少年兵がつかまっていた。童顔で15、16歳に見えた。ロープが届かない。「泳げ!」と叫んだ。

 少年兵は必死の形相で泳ぐ。だが、ロープを投げても浮輪を投げても届かない。懸命に両手を突き上げで水をかくが、やがて頭が沈んだ。

 「だめだと思ったら、彼はもう一回顔を出して、声を上げたんです。それから海に消えた。重油でどす黒くなった顔で、一瞬こっちを見たんです。何を訴えたかったのか…」

 この戦いで、3700人以上が命を落とした。

 雪風は終戦まで生き延び、戦後は復員輸送に従事した。

 その後、賠償艦として中華民国に引き渡された。「丹陽」と名を変え、中国共産党との国共内戦で戦ったという。台湾から昭和46年、いかりと舵輪だけが返還された。

 豊田氏は戦後、海上自衛隊に入り、掃海艇に乗った。50歳で退官し、今は山口県下関市で静かに暮らす。友人との囲碁が楽しみだという。

 「本来、私は大和で死んでいたのに、雪風に転属となり、助ける身になった。これは運です。二度と見ないと思った桜を見るたびに、何ともいえない気持ちになるんです」(大森貴弘)