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【平成の電気はこうして生まれた 新大分発電所】(4)

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【平成の電気はこうして生まれた 新大分発電所】
(4)

新大分発電所の中央制御室。ヒューマンエラーを防ぐ工夫が各所に施されている 新大分発電所の中央制御室。ヒューマンエラーを防ぐ工夫が各所に施されている

 ■「動かすのは人間、ヒューマンエラー防げ」 培った技術、メキシコに注ぐ

 「新大分発電所の建設メンバーに、君を推薦しようと思う。コンバインドサイクルの時代に入るぞ」

 入社4年目の吉田明則(57)=現九州電力総合研究所長=は、上司に声をかけられた。昭和63年2月、胸を高鳴らせながら建設現場に入った。

 九電は60年に着工した新大分発電所の建設要員として、各地の発電所から社員を集めた。新小倉発電所所属の吉田も志願していた。

 建設現場は海沿いにあった。冷たい海風に、体は芯まで凍えるようだった。だが心の中は熱かった。九州の将来の電気を支える大プロジェクト、しかも最先端技術に関われる。「どんな仕事でもやろう」。喜びと意欲に満ちていた。

 コンバインドサイクルは、ガスと蒸気の2つのタービンを組み合わせる。九電にとって、新大分で初めて導入する技術だった。

 吉田は起動・停止に関わる機器を据え付ける「制御班」に配属された。設計図を基に、工法を考え、作業の進捗(しんちょく)を管理した。

 設計図は、九電と設備メーカーが慎重に検討し、何百時間も費やして作成した。それでも机上の想定であり、実際に運転すれば、使い勝手の悪さが出てくる。ミスや事故にもつながる。

 先輩社員は、複数の図面を読み解きながら、運転後に起こる問題を予測し、改善を検討した。機器収納場所の扉について、右開きが良いか、左開きがよいかまで熟慮した。

 「図面から課題が先読みできるのか。すごいな」。吉田は九電が培ってきた技術力を実感した。

 細やかな創意工夫は、発見の連続だった。重要な情報を示す計器は、床から130センチの高さに配置されていた。人の目線の高さだった。ヒューマンエラーを防ぐ工夫があった。

 「工事が終わって問題に気づくのでは遅い」。その姿勢が徐々に身についた。

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 時代は平成に入った。発電機や変圧器、排気ダクトなどが、日本各地のメーカー工場から運び込まれた。数十トンから数百トンにもなるパーツだった。

 九電は、若手社員を次々と現場に送り込んだ。先人が積み上げたノウハウと、新しい技術を、身につけさせるためだった。

 元年2月に加わったメンバーに、入社3年目の稲田龍一(55)=現新大分発電所所長=と、同2年目の大賀茂(56)=現新小倉発電所副所長=がいた。それぞれ、蒸気タービンとガスタービンの設置を担当した。

 2人は、メーカーである日立製作所の工場へ行き、コンバインドサイクルの仕組みやメンテナンスを学んだ。研修期間は1カ月間にもなった。

 同じタービンといっても、蒸気で回すものと、高温ガスで動かすタービンは、点検やメンテナンス手法が全く違った。驚くことばかりだった。

 建設現場では、苦い経験もした。

 大賀は、非常用発電機の設置を担当した。燃料用タンクの基礎部分を造るように、社内の土木担当者に依頼した。

 ところが、基礎にタンクがうまく乗らない。タンクメーカーと、土木担当者が書いた図面を見比べると、設置面の勾配がわずかに違っていた。「双方の図面をよく見ていれば防げたのに…」。悔しさと、チェックの重要性をかみしめた。

 大賀は、品質管理の工夫も学んだ。ある日、目の前で、技術課長が6本の色鉛筆を並べ始めた。

 「何をしているんですか」。尋ねた大賀に、課長は説明した。「発電所には6個の発電機がある。装置や図面を色分けしておけば、見間違いやミスが減るだろう」

 「装置を動かすのは人間だ。完璧な装置を造っても、ヒューマンエラーを防がなければ意味がない」。大賀は感心した。

 稲田は給水管の設置を担当した。通水の初日、配管の接続部から水が漏れた。「何をやってるんだ!」。電気担当者から怒号が飛ぶ。そばには電気機器があった。事故につながりかねない失敗だった。

 稲田は水が絶対に漏れないよう、配管の接続をボルトから溶接へ切り替えた。

 ミスをすれば、容赦なく叱られた。それでも「失敗して学ぶもんだ」という雰囲気も、どこかにあった。

 「機器のことで何かおかしいと感じたら、メーカーにちゃんと言え。そのために、しっかり勉強しないとだめだ」

 先輩社員の言葉に、稲田は「発電所を造るのは、俺たち九電だ」という自負を感じ取った。

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 平成2年5月、発電所の一部で試運転が始まった。

 電源はその働きから、大きく3種類に分かれる。

 常時、一定の発電をする原発や石炭火力などのベースロード電源。需要の増減に応じて発電量を調整する中間負荷(ミドル)電源、短時間の需要急増に対応するピーク電源だ。コンバインドサイクルは起動や停止が比較的容易で、ミドル電源の役割が求められていた。

 吉田が所属する制御班は、起動・停止の機能テストに臨んだ。発電量をゼロにして、タービンを回した状態で待機させる。次の発電をスムーズにするためだった。

 しかし、何度やってもタービンが待機状態にならず、回転が止まった。

 「原因はなんだ。調べろ」。厳しい声が飛ぶ。

 考え得る原因をホワイトボードに書き出し、順番につぶしていった。チームは、ほぼ徹夜で作業を続けた。吉田も、もうろうとしていた。

 通商産業省による検査が迫っていた。検査をクリアできなければ、稼働時期は大幅に遅れる。全員がプレッシャーを感じていた。

 4日ほどたっただろうか。メーカーの主任技師が、装置を鉛筆でコンコンとたたき、「これじゃないのかなあ」とつぶやいた。

 異常信号を受けて、スイッチを切り替えるリレーと呼ばれる機器だった。回路に混ざった信号を、異常と誤認し、タービンを停止させたと推測した。

 回路を変更し、タービンのテストを行った。吉田たちは、祈るような気持ちで取り組んだ。タービンは無事、待機状態に入った。心底ほっとした。

 1年かけて試運転を終えた。平成3年6月20日。新大分発電所は営業運転を開始した。

 同年11月、大分市内のホテルで祝賀会が開かれた。

 「東九州の経済開発の拠点ができた。明るい展望が開ける」。建設用地の活用を打診した大分県知事の平松守彦(1924~2016)は喜びを口にした。

 九電第7代社長の大野茂(1928~2006)は「九州の電力の安定供給に貢献し、安全運転と環境保全に万全を期す」と決意を述べた。

 新大分発電所は、その後、設備が増強され、総出力280万キロワットの九州最大の火力発電所に育った。

 23年の東京電力福島第1原発事故以降、全ての原発が停止した際は、九州における電力供給の柱だった。

 九電が海外に本格進出する契機にもなった。

 営業運転から10年後の13年には、三菱商事との共同事業として、メキシコ東部トゥクスパン地区で、コンバインドサイクル発電所の運転を始めた。九電は社員を派遣し、技術面でサポートした。

 九電火力の伝統は、新しいことに取り組む「先進性」だ。新大分発電所は、新たな技術を獲得し、継承する舞台となった。

 稲田は29年4月、新大分発電所所長となった。

 「発電所が稼働を続けるのは、従業員の日々の努力のたまものだ。新大分があるからこそ、九州に電気を安定して供給できる」。そう思い、今も走り回っている。(敬称略)=おわり

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 この連載は九州総局・高瀬真由子が担当しました。