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平安京の源氏の“聖地”に馬丸ごと埋葬した跡 承久の乱に関与の武士か、尽きぬ興味

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平安京の源氏の“聖地”に馬丸ごと埋葬した跡 承久の乱に関与の武士か、尽きぬ興味

 これまで馬を埋葬した遺構は見つかったことがなかった京都市下京区の平安京跡から、馬を1頭丸ごと埋葬した跡が出土した。調査を担当した元興寺文化財研究所(奈良市)によると、平安京では初めての例だという。律令制度の下で都の中では人や家畜の埋葬が禁じられていたが、出土場所が武家の棟梁(とうりょう)・源氏の“聖地”ともいえる区域だっただけに、専門家は武士が埋葬した可能性が高いと指摘する。では具体的に誰が埋葬したのか? 当時の社会情勢からひもといてみる。

 出土場所は平安京の左京六条二坊十四町(現在の京都市下京区)にあたり、後白河法皇の近臣として活躍し、「平家物語」にも登場する宇多源氏出身の源仲国(なかくに)の屋敷跡があったことが分かっている。ただ、この地は近くに「八幡太郎」の名で知られる平安時代後期の武士・源義家の父、頼義が建てた若宮八幡宮や源義経の邸宅跡にあったとされる左女牛井(さめがい)跡も残り、清和源氏の間では長らく聖地とされてきた。

 発掘調査では、13世紀初頭の火災の痕跡を示す陶磁器とともに焼け焦げた赤い土が出土した。藤原定家の日記「明月記」には、仲国が建永元(1206)年、妻の起こした騒ぎがもとで都を追放された直後、屋敷が焼失したことを記した内容があり、日記を裏付けるかたちとなった。

 馬の遺構は仲国邸の火災跡の上層から出土。骨を鑑定した東海大の丸山真史講師によると、性別は不明だが、5~7歳の働き盛りの馬で、「やや頭の大きい木曽馬のような、以前からいる通常の種類と大差はない。武士の間で広まり、宮廷や貴族の間にも少なからずいたような馬だろう」と話す。

 平安京では1頭分が埋葬された例はなく、頭部のみを水などに関わる祭祀で使う慣習があったことから、道路側溝跡などから頭の骨だけが見つかることはある。だが、その場合は頭以外は食肉に使われるために、1頭分の骨が残ることはなかったのだ。

 では誰が馬を埋めたのだろうか。今回、馬の骨と同時に銅銭を入れた同時期の甕(かめ)も出土した。ただ底だけが残り、周辺に銅銭が散乱していた。同研究所の佐藤亜聖主任研究員は「甕を土中から強引に引き抜いた状況から、馬を飼っていたのは承久の乱にからんだ武士だったかもしれない」と推測する。

 鎌倉幕府3代将軍、源実朝が建保7(1219)年に暗殺されると、幕府と後鳥羽上皇との関係は急速に不安定に。その結果、暗殺から2年後に起きたのが承久の乱だった。

 当時は幕府から御家人が京都に、朝廷から高級貴族が鎌倉に赴くなど公武が共存を図っていた時代。今回の馬の遺構は、幕府重臣の京都での拠点だったとも考えられる。

 中世武士団に詳しい野口実京都女子大名誉教授は、「屋敷内での馬の埋葬は関東でも例がなく、幕府の関係者ではない可能性も考えられる」として清和源氏の流れをくむ幕府重臣ながら、文学の知識・才能から上皇の近臣でもあった源光行(みつゆき)の可能性を指摘する。

 光行は承久の乱時には京都にいて、上皇側に従ったために乱後は幕府から罪を追及されるが、多くの幕府関係者の嘆願で刑を逃れている。

 野口名誉教授は「源仲国の弟で、実朝の暗殺時に一緒に殺害された仲章(なかあきら)も兄の代わりに十四町に住んでいた可能性が十分あるので、馬を扱う市場関係者らも含めて幅広く考える必要がある」と語る。

 貴族の治世から武士の世へと移った歴史を象徴するかのような馬の遺構。専門家だけでなく歴史ファンの興味は尽きない。