産経ニュース

【平成の電気はこうして生まれた 新大分発電所】(2)LNG第1船入港

地方 地方

記事詳細

更新

【平成の電気はこうして生まれた 新大分発電所】
(2)LNG第1船入港

大分のLNG基地に入港したタンカー「のーすうえすと・すわろー」=平成2年4月 大分のLNG基地に入港したタンカー「のーすうえすと・すわろー」=平成2年4月

 ■全長272メートル 日豪つなぐ「渡り鳥」

 ■「電力供給の根っこは燃料調達だ」

 平成2年4月20日早朝、全長272メートルのタンカー「のーすうえすと・すわろー」が別府湾に姿を現した。タグボートに誘導され、ゆっくりと着岸した。

 九州電力新大分発電所で使う液化天然ガス(LNG)を積んだ第1船だった。春、南方から日本に飛来するツバメと同じように、オーストラリア西部のカラサにあるLNG基地から、10日かけて6400キロの大海原を北上してきた。

 九電燃料部次長の石井拓(76)=後に西日本プラント工業社長=は、タンカーに詰まったLNG買い付けに、走り回った。だが、記念すべき到着にも、感慨にふける暇はなかった。午後に開かれる入港式の段取りで頭がいっぱいだった。

                 × × ×

 昭和53(1978)年8月、30代の石井は、豪州シドニーにある三井物産のオフィスにいた。商談ではなく、「物産マン」として働いていた。

 「電力会社はどうも海外に弱い。これからはそれじゃいかん」

 第4代社長の永倉三郎(1910~1993)は思案していた。第1次オイルショックは、資源を輸入に頼る日本の脆弱(ぜいじゃく)さを露わにした。電力会社にとって、発電用燃料を安定して調達する能力の向上が課題となった。

 日本はかつて、石油輸入の道を閉ざされ、米国との戦争に追い込まれた。大戦中、3度にわたって出兵した永倉は、そのことをよく知っていた。国力の源である資源を安定して輸入するには、海外に明るい人材を育てないといけない。

 そこで、燃料仕入れを担当する燃料部社員の海外研修が始まった。三井物産など関係のある商社が、受け入れ先となった。石井は1期生に選ばれた。

 遠く離れた国に社員を出すのは、九電にとって初めてだった。出発の際、福岡空港に常務をはじめ20人の社員が集まった。

 「じゃあ、石井君、ひとつ元気で!」

 手を振る社員を見て、石井は「戦地に人を送り出すようだな」と思った。

 現地での仕事は、商社の仕事を学び、燃料の生産現場を自分自身の目で見ることだった。

 そのころ、豪州西部で天然ガスの試掘が始まっていた。天然ガスは生産地が世界各地に広がる。石油の調達が、中東情勢に大きく左右されるのに比べ、リスクは小さいといえた。その上、石炭や石油より、燃やした際に出る有害物質が少ない。

 永倉は石油に依存しない形を模索していた。天然ガスを、新たに建設する新大分発電所の燃料にしたいと考えていた。

 石井も、天然ガスが燃料の柱になると認識していた。慣れない英語を使って住まいや食事を自力で確保し、研修をこなした。

 資源を扱う商社は、情報収集に現地政府や企業とパイプを築く。あるとき、三井物産の事務所に、日本大使館から電話が入った。

 「オーストラリアで日本人が行方不明になりました。何か情報はありませんか」

 石井は驚いた。「大使館から頼られるのか。それだけ現地に入り込み、情報網を持っているんだな…」。商社の仕事を通じ、石井もまた人脈を築いた。

 半年後、石井は帰国した。九州では新大分発電所の建設計画が動き始めていた。完成すれば、年間100万トン規模で、LNGを新規調達する必要が生じる。

 永倉らは、豪州とカナダの2カ国からLNGを調達する案を検討した。豪州から90万トン、カナダから30万トンを仕入れる計画だった。

 これが後日、新大分発電所の開業時期を遅らせた。

                 × × ×

 昭和55(1980)年10月、九電、中部電力、大阪ガス、東邦ガスはカナダの資源会社「ドーム・ペトロリアム」と、LNG調達の仮契約を締結した。日商岩井が仲介した。

 資源開発には、巨額の投資が必要となる。しかもカナダはこれまで、パイプラインを使って米国に天然ガスを輸出していた。

 海を越えてガスを運ぶには、液化という工程が欠かせない。気体のガスをマイナス162度まで冷やし、液体にすれば、体積は600分の1と極めて小さくなり、船で大量に運べる。半面、液化基地を築くにも、投資が必要となる。

 仮契約の翌年、米国が景気後退局面に入った。米国に依存するカナダ経済は、より深刻だった。

 経営不振に陥ったドーム社は、九電など日本側により高値での契約を求めた。

 日本側にとって、ドーム社の言い値でガスを購入するのは難しかった。

 しかも、米国は日本にLNGを輸出していた。カナダ企業が日本へ輸出することは、米企業の商機を奪う可能性がある。米国市場に依存するカナダ企業にとって、障壁は高かった。

 「カナダは米国という大国に接し、パイプラインも通っている。日米をてんびんにかけたとき、本当に、日本を向いてくれるだろうか」

 仮契約後、石井には不安がよぎった。その直感通り、交渉は難航した。

 その後も燃料部は、カナダからの輸入実現に、努力を重ねた。石井も60年から燃料部課長としてカナダに足を運び、情報収集や折衝を続けた。

 だが、情勢をひっくり返すことはできなかった。九電は61年1月、カナダとの仮契約を解除した。

 「残念だけど終わったね」。石井の隣で、燃料部長が肩を落とした。

 燃料が足りなければ、発電所は動かせない。新大分発電所の運転開始は、当初計画の62年10月から、最終的に平成3年まで延期した。

 九電燃料部は、豪州に望みをつないだ。

                 × × ×

 鉄鉱石や石炭など資源輸出国である豪州は、LNGでも日本市場を狙っていた。LNG調達を増やしたい日本側とは「相思相愛」といえた。

 昭和50年代、日本の電力、ガス会社が連携し、売買契約を結ぶ計画を立てた。

 九電燃料部の内藤富夫(66)=現九電不動産社長=は、電力、ガス会社と協議し、契約書の中身を練った。

 内藤も石井と同じように、九電の海外研修3期生として豪州に赴いた。そこでみたオーストラリア人は、余裕が感じられた。

 「豪州には鉄鉱石も石炭も、ガスもウランもある。だから、雰囲気に余裕があるんだろうか」。内藤は、資源小国の日本を思った。日本が経済成長を続け、国民が豊かになるには、資源の安定調達が欠かせない。

 「ガソリンがなければ車が動かないように、燃料がなければ発電所は動かない。この契約に沿って、燃料がくる。電力供給の根っこは燃料だ」

 内藤は多忙な日々を送りながら、重要プロジェクトに関わる充実感を覚えた。

 昭和60(1985)年7月、豪州産LNGの売買契約が結ばれた。売り主は、石油メジャーのシェルやBPグループなど6社、買い主は九電など日本側8社だった。日本側が、年584万トンのLNGを、19年間にわたって購入する。

 調印式で豪州首相のホークは「両国を将来にわたって結びつける、すばらしい契約だ」と述べた。

 九電燃料部は、頓挫したカナダ分を、豪州産に上積みするよう働きかけた。当初の90万トンから105万トンまで増やすことができた。

 LNG輸送には専用船を使う。豪州からLNGを日本に運ぶ計8隻の船は、いずれも両国ゆかりの鳥の名が付けられた。第1船「のーすうえすと・すわろー」は三井造船が建造した。

 その船が平成2年、大分に到着した。内藤はタンカーから陸上タンクに移されるLNGの量を確認していた。価格に直結する燃料部の大事な仕事だった。

 九電がLNG新規調達に動き始めてから10年が経過していた。にぎやかな歓迎式典の裏で、内藤のように数多くの社員が働いた。

 九電は、船長らに有田焼や伊万里焼の記念品を贈った。石井は、乗組員にビールやジュースを渡した。無事、LNGを持ってきてくれたことへ、心から感謝した。

 式典を終え、石井は巨大なタンカーとタンクを眺めた。自身が携わったプロジェクトの壮大さを実感した。「LNGは、日本のようにきちんと安全管理ができる国でないと扱えない。資源がない日本だからこそ、いろんな知恵や技術が出てくるんだな」 (敬称略)