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熊本出身の志賀哲太郎顕彰するつどい 「大甲の聖人」の功績語り継ぐ

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熊本出身の志賀哲太郎顕彰するつどい 「大甲の聖人」の功績語り継ぐ

台北駐福岡経済文化弁事処の戎義俊処長の講演に聴き入る「つどい」の出席者ら =熊本県益城町 台北駐福岡経済文化弁事処の戎義俊処長の講演に聴き入る「つどい」の出席者ら =熊本県益城町

 明治から大正期、熊本県から日本統治下の台湾に渡り、小学校の代用教員として児童教育に尽力した志賀哲太郎(1865~1924)を顕彰するつどいが25日、志賀の出身地である熊本県益城町で開催された。台湾教育界への貢献から、今も「大甲の聖人」として慕われる。日台の関係者約400人が集まり、功績を語り継ぐ決意を新たにした。 (谷田智恒)

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 志賀は新聞記者などを経て、明治29年、31歳で台湾に渡った。3年後、台中市北西部の街、大甲で台湾の子供たちが通う公学校(小学校)の代用教員になり、59歳で亡くなるまで四半世紀にわたり、子供たちの教育に情熱を注いだ。

 当時、保護者らの教育への関心は低く、就学率も低迷していた。

 志賀は、就学適齢期を迎えた子供の家を訪問し、根気強く登校を勧めた。学校では、文具を持たない子供たちに自ら買い与え、学費が払えない場合は身銭を切ってでも通学させるなど、支援を惜しまなかった。

 こうした努力は実を結び、出席率や進学率はじわじわと伸びた。大甲から、台湾各界で活躍する人材が多く輩出された。

 半面、教育レベルの向上は、民族意識も高めた。大甲でも独立運動が激しさを増した。抑えようとする台湾総督府との板挟みに思い悩んだ末、志賀は大正13年に入水自殺した。

 教え子らは志賀をしのび墓碑を建立し、いつしか「大甲の聖人」と呼ばれるようになった。

 志賀の生誕150年の平成27年9月、熊本の地元有志らが、「志賀哲太郎顕彰会」を発足させた。つどいは、同会と益城町が共催し、台湾・台中市大甲区からも、王澤佳副区長を団長とする10人の訪問団が出席した。

 つどいでは、益城町の西村博則町長が「偉業を顕彰し後世に伝えることが、熊本地震で被災したわが町の精神的、文化的復興につながる」とあいさつし、王氏も「強い信念を持ち教育に尽力した志賀先生は今の住民の心の支えになっている」と応えた。

 顕彰会の宮本睦士会長(益城の歴史遺産を守る会会長)は「志賀の偉業は日本の歴史の中でも忘れ去られてきた。益城と大甲の絆を大切にしながら、今後も功績を掘り起こす活動を続けていきたい」と抱負を語った。

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 つどいに合わせ、台湾の総領事館に相当する台北駐福岡経済文化弁事処の戎義俊処長は「日本精神から見た志賀哲太郎と台湾」と題して、講演した。

 「台湾が世界一の親日とされる背景には、台湾に残る『日本精神』がある。志賀は知識の伝授だけでなく、礼儀や時間の観念など自ら身を以て範を示し、生き方そのものが日本精神を体現したといえる。志賀を通じて、益城町と台中市大甲区がさまざまな体験や交流を深め、未来の良好な関係の礎となる友情を育んでほしい」