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【今こそ知りたい幕末明治】(49)坂田諸遠と平野国臣の学縁

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【今こそ知りたい幕末明治】
(49)坂田諸遠と平野国臣の学縁

福岡市西公園にある平野国臣の銅像 福岡市西公園にある平野国臣の銅像

 幕末の秋月藩士で国学者、有職(ゆうそく)故実家、明治時代になってからは政府の官吏、主に外務官僚として活躍した坂田諸遠(もろとお)(九郎右衛門)をご存じだろうか。

 坂田諸遠は『秋月史考』などによれば、文化7(1810)年10月12日に筑前国鞍手郡の医家に、次男として生まれた(文化8年生まれとの説もある)。後に筑前国秋月藩士、坂田諸保の養子・嗣子となったとされる。

 はじめは勘十郎、後に木工助、九郎衛門、諸近を名乗り、安政6(1859)年、藩主であった黒田長元の嫡子・長義(長久)が、従五位下・近江守(後に甲斐守)に任ぜられるにあたり、「近」の文字を憚(はばか)って諸遠に改称したという。

 『秋月史考』にはこうある。「資性沈毅、気魄あり、学を好み青年の頃笈を負ふて崎陽(長崎)に学ぶや学資窮乏、雪花菜(おから)を米穀に代え僅(わず)かに飢餓を医(いや)し、百難を排して素志の達成に努む」。志高く、学問を修めた向学心のある人物であった。

 「寛政の三奇人」に数えられた塙保己一(はなわほきいち)の直系で、久留米藩士の松岡辰方(行義)・明義父子に国学(皇学)を学ぶ。秋月藩では、三人扶持9石他に足高1石合計10石の禄を食み、御陸士に任命される。

 坂田は有職故実に精通していたので、藩の躾方(しつけかた)稽古、躾方指南役や、勤役中陸士小頭格記録方、弓馬故実師範、御勘定方頭取仕組筋見ケ締などを勤め、安政4(1857)年に隠居を願い出た。

 隠居後は家で私塾(坂田塾)を開いていたようだ。門弟には筑前の勤王の志士、福岡藩士で後に脱藩し国事周旋に奔走した平野国臣がいる。

 平野は坂田とは長崎で出会っていたようだ。平野は元来、和歌や雅楽の嗜(たしな)みもあり、和魂漢才の学問、有職故実に興味関心が深かった。その縁で、有職故実家である坂田諸遠の門下生となり秋月を往来するようになったという。

 平野は太宰府天満宮(楼門)や宗像大社沖津宮(筑前大島)の普請など福岡藩の普請方の勤務経験もあり、烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)の古風な姿で町を出歩くなど尚古主義者で、「犬追物復興」を藩主に直訴に及び、謹慎になった。謹慎後の安政4年9月に坂田塾に入門し、有職故実や古典考証など研究や読書・写本に没頭するようになったとされる。

 また、「弓馬故意」や「打刀並刺刀之略説」「兵馬大略」など軍学・兵学や武家有職故実の研究書を著し、「火の用心」など日本語の考証や犬追物や弓馬の古式(儀式)を実践したという。

 この後、平野は勤王の志を固め、脱藩する。お由良騒動で薩摩藩を脱藩、筑前に潜伏した北条右門(木村仲之丞、後に村山松根)と行動をともにした。勤王の志士、平野国臣の国事周旋活動が本格化していく。

 その勤王倒幕(討幕)思想を覚醒、確立させたのは、秋月の地といえるかもしれない。

 また坂田は、薩摩へ落ち延びる途中であった清水寺の勤王僧、月照や平野国臣の逃避行を周旋している。坂田は、秋月に近い上座郡大庭村(現福岡県朝倉市)に潜伏した薩摩脱藩士、竹内五百都宅で、月照や平野と面会し、筑後川を渡り、久留米から大川方面へと向かった2人を見送っている。

 坂田諸遠は維新後は東京に出て、長崎鎮守総督府に勤務した後、明治3(1870)年、62歳の高齢で外務省記録局に出仕し外務大録や奏任御用掛となる。

 「維新外交史」(32巻)「続通信全覧」など多くの明治維新期の外交史資料を編修するなど、米寿で亡くなる直前まで外交史編纂業務に従事した。坂田の学識や教養の根源は読書や写本であった。彼の蔵書は1万5千冊に及び、現在、東京大学総合図書館の南葵文庫の一部や福岡大学図書館(研究推進部)「坂田諸遠文書」として収蔵されている。

 今年は明治維新150周年に加え、私が勤める日本経済大学(旧第一経済大学)も開学50周年を迎える。坂田諸遠や平野国臣のような学問の志や師弟の絆、日本の伝統や歴史文化を継承してきた先人の遺訓や書籍、有職故実を大切にする心、温故知新や和魂が、明治維新の根源であったことも知っていただきたい。

【プロフィル】竹川克幸 たけがわ・かつゆき 昭和48年、福岡県飯塚市生まれ。鹿児島大、同大学院修士課程、九州大大学院博士課程などを経て、日本経済大学経済学科准教授。専門は日本近世史と九州の郷土史。特に幕末の太宰府と五卿の西遷、志士の国事周旋の旅などを調査研究。著書(共編著)に「アクロス福岡文化誌9福岡県の幕末維新」(海鳥社)など。