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【平成の電気はこうして生まれた 新大分発電所】(1)息づく伝統、戦友への思い

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【平成の電気はこうして生まれた 新大分発電所】
(1)息づく伝統、戦友への思い

運転開始を直前に控えた新大分発電所=平成3年5月 運転開始を直前に控えた新大分発電所=平成3年5月

 ■「新しい時代の火力を九電がつくる」

 「電気事業開拓の歴史を残すことは、私に与えられた使命だ」

 平成元年8月。九州電力相談役の永倉三郎(1910~1993)=第4代社長=は、自身の回顧録に筆を走らせていた。

 永倉は40年以上にわたり、九州の発電所建設に携わった。その一つ、新大分発電所が、構想から10年以上の月日を経て、3年の運転開始を控えていた。液化天然ガス(LNG)を燃料に、ガスと蒸気の2種類のタービンを組み合わせた最新技術を採用した。

 永倉は、新大分発電所が電気を送り出す日を想像しながら、計画当初を懐かしんだ。

 「最新鋭のコンバインドサイクル方式、米国で発電所稼働」

 昭和50年ごろ、米国で新技術を使った発電所が、相次いで建設された。九電の火力部社員は、見慣れない言葉に目をとめた。

 それまでの国内のガス火力は、ガスを燃やした熱で蒸気をつくり、発電用タービンを回す。

 「LNGを燃やした際に、高温高圧のガスが生じる。この燃焼ガスも使えないか」。コンバインドサイクルは、こんな考えから誕生し、米ゼネラル・エレクトリック(GE)やウェスチングハウス(WH)が実用化した。

 九電社員が一様に驚いたのは、熱効率で「43%」という数字が出ていることだった。

 熱効率は、燃料が保有するエネルギーが、どれだけ電気に変換されたかを示す。当時、九電の発電所は、石炭や石油を使う火力発電所が主流だった。熱効率は最大でも38%で、40%の壁を越えるのは至難とされていた。

 熱効率が1ポイントでも上昇すれば、年間の燃料使用量は、大幅に削減できる。火力部員は関心を抱いた。

 そのころ、永倉のもとを、大分県知事の平松守彦(1924~2016)が訪れた。大分市の臨海地に造成した工業用地を、九電に活用してほしいという要請だった。

 別府湾に面する埋め立て地は、県が政府の支援を受けながら、「新産業都市」として整備した。大野川を挟んで西岸は、新日本製鉄や九州石油、九電大分発電所が立地した。

 平松が頭を抱えていたのは、東岸にある「6号地」だった。もともと九州石油が基地を建設する予定だったが、石油事情の急変で断念したのだった。

 平松の話を聞いた永倉の頭に、ある考えが浮かんだ。「コンバインドサイクル方式の発電所はどうか」。脳裏には電力供給への強い思いがあった。

                 × × ×

 昭和48年、第1次オイルショックが、九電を大きく揺るがせた。発電の8割を石油火力に頼っていたからだ。

 永倉は翌49年、社長に就任した。暴騰する原油価格を前に、なすすべは無かった。49、51年と立て続けに料金値上げに追い込まれた。会社を守るための苦渋の選択だったが、地元企業からは恨み節が上がった。

 「原油価格に左右されにくい会社をつくらなければならない」

 永倉は「脱石油」を推進した。高度成長と電化製品の普及で、電力需要は毎年増加していた。原子力や国内より安い海外炭、新たなエネルギー源として注目されたLNGを活用し、電源の多様化を目指した。

 「豊富、低廉、良質な燃料から電気をつくる。これが電力会社の使命だ!」

 号令をかける永倉の脳裏には、忘れられない人々がいた。

 佐賀市生まれの永倉は、昭和9年、旧東邦電力に入社した。戦時中は3度召集された。満州など中国大陸北部や、ビルマ(ミャンマー)と戦地に赴いた。多くの戦友が、異国の地で亡くなった。

 「国の礎となって散華した莫大(ばくだい)な数の国民の霊に対し、生還した者の務めは何だろうか」

 引き揚げ後、自問自答を繰り返した。26年に誕生した九州電力の初代管財課長となった。総務部長、常務、社長と歩んだ。

 「俺は電気を通じて、九州や日本の繁栄に尽くす」

 周囲から「あか抜けたソフトな性格」と評される永倉だが、胸中には固い信念を抱いてきた。

 その永倉にとって、大幅な料金値上げは痛恨の出来事だった。いつしか「電力のコストを下げる」が、口癖となった。

 LNGを使ったコンバインドサイクルは、熱効率が高く、その上、起動時間が短い。急増する電力需要に対応できる。

 永倉がこの新技術に着目したのは、自然な流れだった。オーストラリア沖で試掘中の天然ガス探査が成功したことも、脳裏にあった。

 ただ、国内の電力会社では実例がなかった。信頼性や効率を、十分に検証しなければいけない。

 大分県知事の平松が、工業用地活用を打診したのは昭和53年だった。

 永倉は火力部の社員を米国に派遣し、コンバインドサイクルを学ぶように命じた。社員はGEやWHの発電所を見て回った。「九州にこの最新鋭火力を導入したい」との思いと、大量の資料を持ち帰った。

 資料の翻訳を任されたのが、火力部所属の瓜生道明=現社長=(68)=だった。

 文章のあちこちに、見慣れない機器の単語があった。「tail tube…尾筒か。尾筒っちゃなんじゃ!」

 しばらく調べて、高温高圧ガスをタービンに導く装置だと分かった。意味不明の単語に、何度も頭を抱えた。

 「本当は俺も出張に行きたかったのに」。瓜生はそう言いたかったのをぐっとこらえ、山のような資料と格闘した。GEと提携していた日立製作所などに問い合わせながら、翻訳を進めた。5月の大型連休も、休めなかった。

 それでも、新技術に関われることは、何よりも魅力だった。「この発電所を作らなければ、九州の供給力は補えない」。使命感も沸いた。

 瓜生の翻訳を元に、出張報告書は作成された。

 「信頼できる技術だ。九州にも導入しよう」。永倉は決断した。電源が手薄だった東九州の電力供給に、寄与する面もあった。

                 × × ×

 火力部を中心に、基本計画を策定する部隊が結成された。56年、新技術担当副長となった片山修造(74)=後に九電産業社長=は、プラントメーカーとの共同研究をまかされた。

 勉強を進めるうちに、目からうろこが落ちる思いだった。

 「ガスと蒸気、それぞれ確立された技術を組み合わせれば、飛躍的に熱効率が上がるのか」

 片山は日立製作所と三菱重工業の担当者と、起動性能や効率について研究を進めた。モデル機も作り、新大分に適したシステムを模索した。

 片山は先輩社員の奮闘を思った。

 九電は戦後間もない頃、米WHの協力を得て、苅田発電所を造った。九電技師は、祖国復興のために先進技術を取り入れようと、インチ・ヤードで書かれた設計図や、文化の違いに苦闘しながら、必死に発電所を建設した。

 「新技術を採用するのは九電火力の伝統だ」。先輩から何度も聞かされた言葉は、いつしか片山自身の思いになっていた。大分市の発電所予定地を見たとき、気持ちが高ぶった。「新しい時代の火力を造る」

 ガスと蒸気の2つのタービンと、発電機をどうつなげば効率が上がるか。もちろん安全が第一だ。環境性能も含め、膨大な項目で議論を尽くした。

 着手から1年半、基本計画ができあがった。

 58年2月、発電所建設に関する協定を、大分県、大分市、九電の3者で結んだ。永倉は、新しい時代の幕開けを感じながら、協定書にサインした。

 片山は技術課長として、瓜生は燃料を貯蔵するLNG基地の建設担当として、それぞれ建設に深く関わることになった。(敬称略)

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 平成の30年間に誕生し、われわれの暮らしを豊かにしてきた技術や商品、出来事をたどる。

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【用語解説】新大分発電所

 1~3号系列があり、総出力は280万キロワット。九州最大の火力発電所であり、九電の発電設備容量の15%を占める。平成3年6月に1号系列が営業運転を開始。その後、増設を続け、28年に現在の設備となった。液化天然ガス(LNG)を燃料にしたコンバインドサイクル方式は、起動・停止が容易で、需要の変化に柔軟に対応できる。大分市青崎。

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