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【今こそ知りたい幕末明治】幻の薩摩藩京都「岡崎屋敷」発見

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【今こそ知りたい幕末明治】
幻の薩摩藩京都「岡崎屋敷」発見

「鴨川沿革橋図」(京都女子大学所蔵、原田良子氏撮影) 「鴨川沿革橋図」(京都女子大学所蔵、原田良子氏撮影)

 慶応2(1866)年正月28日、京都に滞在していた薩摩藩家老の桂久武は、その上京日記に「此日岡崎御屋敷毎月例之通之一陳調練有之由」と、岡崎に設けられた屋敷(調練場)での月例調練について記した。

 岡崎屋敷についての記述は他にもあり、一昨年、鴨川以東の岡崎界隈(かいわい)に「薩州ヤシキ」と描かれている古地図の存在が話題になったが、正確な場所などは不明のままであった。

 今回、古地図研究第一人者で佛教大学非常勤講師の伊東宗裕氏と、西郷隆盛研究家の原田良子氏が、岡崎屋敷の正確な位置や規模、存続期間がわかる古地図を確認した。

 それは、京都女子大学所蔵の「鴨川沿革橋図」巻子(かんす)本(巻物)の中に収められていた。明治31年に京都の篤志家、熊谷直行(鳩居堂第8代当主)が、鴨川の橋についてまとめたものである。従来の古地図と異なり、道路の形状、屋敷の輪郭が比較的正確に描かれている。薩州屋敷の部分には「元治元年四月外柵成慶応四年取払其後此処ヲ分割シテ横須賀大聖寺秋田富山ノ邸ヲ設ク」「ヌエ塚、ヒメ塚、西天王寺(ツカ)」とある。鵺(ぬえ)塚、秘塚という古墳は昭和30年まで現・岡崎公園に存在(その後移設)。そこから場所が特定できた。

 面積も「凡 五万二千二百拾坪」と記載されている。おおよその形状から、岡崎公園から西にあるロームシアター京都、平安神宮のほとんどが岡崎屋敷内と推定できる。

 元治元(1864)年4月に外柵を成し、月日の記載を欠くが慶応4年に引き払い、分割して、横須賀・大聖寺・秋田・富山藩邸となったことは慶応4年の古地図からも確かめられる。隣接する越前、芸州(安芸)、加賀屋敷の坪数などが明記されている点も画期的である。

 元治元年4月、西郷隆盛は沖永良部島から赦免召喚され上洛していた。前月、国父島津久光は尽力した参与会議の解散を余儀なくされた。一橋慶喜が宸翰の草稿問題で久光を警戒し排除したことによる。同4月18日、久光は失意の中、大久保利通を同道して薩摩へ向けて出立し、京都は家老の小松帯刀と西郷隆盛に委ねられた。5月12日付の西郷から国元の大久保への書簡に、久光の意向である禁裏守護に徹していることが記されている。

 岡崎屋敷も、この禁裏守護の目的で設けられたと考えられる。屋敷を見下ろす高台にある黒谷・金戒光明寺は、文久2(1862)年、京都守護職として会津藩主、松平容保が本陣としている。翌文久3年、会津藩と薩摩藩は「八月十八日の政変」で力を合わせた。

 元治元年7月19日の禁門の変でも薩摩藩は禁裏守護を貫き、西郷が指揮した。その精兵、砲隊の調練は岡崎で間違いない。

 2年後の慶応2年正月21日、御花畑で薩長同盟は結ばれた。

 その後、桂久武は小松帯刀とともに、洛西衣笠山の麓(現・立命館大学周辺)に新たな調練場を設ける調査などをしている。小松原村の薩摩藩の調練場である。京都での薩摩藩の軍事的存在感は高まる一方であった。

 ところで、坂本龍馬が寺田屋で襲撃された際に押収された荷物の中に、薩長の談合に関する書面があった。その内容が、「京坂書通写」(鳥取県立博物館)に書かれており、薩長両藩が協力して会津藩を京都から追放する取り決めがあったことがわかった。

 これらのことからも薩長同盟は、場合によって「決戦やむなし」の決意を持った軍事同盟と考えられる。

 薩摩藩の調練場では、英国式兵学者の上田藩士赤松小三郎を招き、英国式歩兵への練兵も行われた。鳥羽伏見の戦いでは、その英国式歩兵も錦の御旗とともに最大限に生かされた。

 桂久武は、慶応2年2月12日に「幸神口橋普請見物として参候」と御幸橋の普請を見学している。

 今回の古地図は御幸橋(現・荒神橋)の解説に付したものであった。その内容は史料の「御幸橋(中略)慶応二年二月、工を興し八箇月にして成るを告く(ぐ)」とも一致する。

 久武は、京都見物をしながら反物や清水焼などを買い求めた。前年末にパリ万博の契約がベルギー商社との間で成されており、その準備とも考えられる。

 富国強兵は島津斉彬の遺志であった。今回発見された地図は、薩摩藩が軍事力と政治力を発揮し、幕末の難局を乗り越え、明治維新を迎えたことを、再認識させる貴重な史料である。