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【今こそ知りたい幕末明治】風呂屋であこがれの浪士に接近

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【今こそ知りたい幕末明治】
風呂屋であこがれの浪士に接近

 文久3(1863)年8月18日、長州藩を中心とした攘夷派は、京都を追われることとなる。攘夷を強硬に唱える三条実美以下公家(五卿)も、これに同行して長州へと下った。

 翌年、萩藩は京都への復権をかけて世子・毛利定広(元徳)の上京嘆願を計画するが、その到着を前にして先発隊が暴発・敗走し(禁門の変)、朝敵へと転落。朝廷は、幕府に長州追討を命じた。第一次長州征討だ。

 萩藩府は、それまで藩政を担った周布(すふ)政之助を中心とした一派から、椋梨(むくなし)藤太中心の一派に政権が交代。毛利家を守るため、幕府への恭順やむなしとする新政権は、従前の政府員を処断し、奇兵隊などの民兵組織(諸隊)にも、解散を命じた。

 山口や徳地に在陣していた諸隊は、萩藩政府の命を受け入れなかった。支藩である長府藩や清末藩に救済を求め、11月15日、湯田に滞在していた三条実美ら五卿を奉じて長府へと足を進めた。

 報せを受けた長府藩は、幾度となく使者を遣わせて入国拒否を伝えた。長府藩士の中には、諸隊士らと通じる者が多数いたが、藩としては、彼らを簡単には受け入れられる状況ではなかった。

 諸隊が、萩藩府の許可を得ぬまま移転し、しかも、第一次長州征討の早期終結を図る上で、その身の取り扱いが取り沙汰されている五卿が一緒となれば、なお更である。

 しかし諸隊は、長府藩の度重なる拒絶を押し切って城下に入った。家老の三吉内蔵介宅の門をたたいて、悲憤慷慨(こうがい)しながら椋梨政権の横暴と五卿の保護を訴えた。

 幕府や征長総督府、さらに萩藩府の手前、事は深刻であったが、内蔵介は、彼らを保護することで生じる一切の責めを自らが負う覚悟を決めた。同月17日、五卿を功山寺に奉迎し、諸隊を城下の寺院に分駐させた。次いで内蔵介は、勝山御殿に登庁して、長府藩主以下政府員を説得、膳夫(料理人)の功山寺派遣や、寝具の調達に取り掛かった。

 内蔵介は五卿奉迎について萩藩府より呼び出されたが、それを一蹴したという。

 緊迫感漂う大人をよそに、長府の幼少年学校「集童場」に通う子供は、五卿の長府入りに小躍りした。

 ただし、彼らのお目当ては、五卿ではなく、その周囲を固める中岡慎太郎、尾崎三良といった浪士たちであった。当時はやりの長寸の刀を腰に佩(は)き、さっそうと歩く姿は、場生の目をくぎ付けにした。都合の良いことに、集童場のすぐ側に、浪士に接近できる場所があった。浪士たちが使う「村屋」という風呂屋である。

 場生は見張りを立てて、浪士の入浴を待った。報せが届くと、我先にと風呂屋に駆け込んで入浴し、浪士の政治談議に耳を傾けた。浪士が詩を吟じれば、それを覚えて帰り、高らかに吟じたという。

 芸能人さながらの人気だが、単に風采の格好良さだけではなく、子供たちの政治への関心の高さも、影響しているようでならない。

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 こじょう・はるき 昭和43年、山口県下関市生まれ。島根大法文学部卒。民間企業などを経て、平成11年から市立長府博物館に勤務。22年、同館と市立東行記念館の館長。27年から市立歴史博物館館長補佐を務める。「三吉慎蔵と坂本龍馬」「長州と薩摩」などの展覧会を企画した。専門は幕末史。