産経ニュース

【今こそ知りたい 幕末明治】(42)原口泉氏 「薩摩VS幕府」の食卓外交

地方 地方

記事詳細

更新

【今こそ知りたい 幕末明治】
(42)原口泉氏 「薩摩VS幕府」の食卓外交

薩摩藩がパークス一行をもてなした仙巌園内の御殿=鹿児島市 薩摩藩がパークス一行をもてなした仙巌園内の御殿=鹿児島市

 文久2(1862)年、神奈川の生麦村(現・横浜市鶴見区)で、薩摩藩の島津久光一行の行列を乱したイギリス人を、同藩士が殺傷した。世に言う生麦事件が起こった。斬り捨て御免の理屈がイギリス人に通るはずもなく、翌年、英国艦隊7隻が鹿児島へ襲来し、薩英戦争が勃発した。結果両者痛み分けとなり、イギリスと薩摩双方が、相手のことを詳しく知りたいと思うようになった。

 慶応2(1866)年、薩摩藩は英国との親交を深めようと、公使パークス一行を迎え、盛大な宴を催した。

 英国外交官アーネスト・サトウの日記にはこうある。「御馳走(ごちそう)は、酒と2、3品の日本料理ではじまったが、飲みものにはシェリー酒、シャンペン、ブランディなども出され、次々と洋食の皿が運ばれた」

 タイやマツタケ、エビなどを用いた盛大な宴であった。この出来事は外国新聞でも大きく取り上げられ、「日本ノ割烹(かつぽう)ヲ以ッテ四十五種ヲ備エリ、実ニ驚ク可キ饗応(きょうおう)ナリ、外ニ日本酒並(ならび)ニシャンペィエン・セルリー・ビール共ニ洋酒・獣肉等ヲ備ヘタリ」と報じられた。

 アーネスト・サトウは翌日には「私たちはまたもやヨーロッパ風の宴席についた。前日より簡単だったが、料理はかえってよかった。だが、我々が賞賛したのは接待がきわめて丁寧であったことだ。いや、本当のことを言うと、御馳走はそんなによくはなかったし、料理の取り合わせも感心したものではなかった」と書き残している。ちなみにこの日の料理は「シュッキング・ピグ(豚の丸焼き)」だった。

 幕末・明治に、日本の近代医学の基礎を築いた英国人医師、ウィリアム・ウィリスの手紙には「当地(薩摩)では豚狂いが流行しています。可笑(おか)しいのは、そのやり方です。豚には驚くほどの値がついています。石鹸(せっけん)と水で洗い、毛布にくるめ、家の中で最もよい部屋で寝かせます。私の友人にも豚狂いがいて、正気を失ったかと思いましたら、失ったのは実は金でした。この馬鹿(ばか)げた行為をどう説明したらよいのか、私にはよく分かりません」とある。当時の薩摩では、豚料理が最高の接待とされたのだろう。

 一方、15代将軍に就任した徳川慶喜は慶応3(1867)年、将軍の権威を国際的に承認させるため、英国のパークス一行をもてなした。こちらはフランス人シェフによる本格的なフランス料理のフルコースだった。

 慶喜のひ孫、徳川慶朝氏が書いた『徳川慶喜家の食卓』によると、鶏肉スープ、魚、牛フィレ肉、小鳥の串焼き、ローストビーフ、鶉(うずら)と鴫(しぎ)のロースト、さやいんげん・えんどう豆のバター炒め、ホワイトアスパラ、ハムのトリュフ添え、鶏肉のパイ、カステラ…などが用意されていた。

 しかも、慶喜公は立ち上がりイギリス女王の健康を祝して乾杯の音頭をとっている。食後にはパークスらを別室に招き入れ、コーヒーを飲みながら談笑したそうだ。

 その後、パークスは仏国公使ロッシュに宛てた手紙で、「大坂城も素晴らしかったが、慶喜の人格がわたしの心に残した素晴らしさとは比べものにならない」と慶喜公を絶賛した。

 食卓外交対決は幕府側の勝利であったが、同年開かれたパリ万国博覧会では、薩摩は幕府とは別に「日本薩摩太守政府」の名のブースを設け、薩摩焼や漆器、竹細工などの産物を出品し欧米人を魅了した。国際外交の舞台では、完全に薩摩藩の勝利である。

 また、アーネスト・サトウは薩摩藩のホスト役である家老小松帯刀のことを、こう語っている。「小松は私が知っている日本人の中で、一番魅力のある人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず、政治的才能があり、態度にすぐれ、それに友情が厚く、その点で人々に傑出していた」。薩摩藩の食事は好まれなかったものの、薩摩隼人の人柄は伝わっていたのではないだろうか。

                   ◇

【プロフィル】はらぐち・いずみ

 昭和22年鹿児島市生まれ。東大大学院博士課程単位取得退学後、鹿児島大法文学部人文学科教員。平成10~23年、教授を務めた。23年に志學館大人間関係学部教授に就任、翌年から鹿児島県立図書館長も務める。専門は薩摩藩の歴史。「篤姫」「あさが来た」「西郷(せご)どん」など歴史ドラマの時代考証も手掛ける。