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【施光恒の一筆両断】「忖度」への冷笑と道徳の矮小化

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【施光恒の一筆両断】
「忖度」への冷笑と道徳の矮小化

 今年の流行語大賞の一つは「忖度(そんたく)」だそうだ。私は、最近の「忖度」という言葉の使い方には違和感を覚える。森友学園の問題以降、「忖度」は「権力者におもねり、その意を汲む」という意味で使われるようになってしまった。

 元来、「忖度」に悪い意味はない。辞書には「他者の心を推し量ること」とある。他者の気持ちを敏感に感じとり、おもんぱかるということであり、「思いやり」「やさしさ」など日本人が大切にしてきた道徳に大いに関係のある語なのである。

 実際、忖度の相手をオカミや上司など権力者に限定する必要はない。「友人の行動の意図を忖度してみた」「息子の気持ちを忖度する」という具合に、同等もしくは目下の者の気持ちを推し量る場合にも、この言葉を使うことができる。

 ではなぜ「忖度」が「権力者におもねり、その意をくむ」という意味で専ら使われるようになってしまったのか。政権批判を盛り上げたい一部マスコミがこの意味で多用した影響は大きい。だが残念ながらそれだけではなく、現代日本人の多くが、日本の道徳が本来備えている奥行きを見失いつつあることも一因ではないか。

 日本の道徳では、子供を、他者の気持ちによく気が付き、配慮できる敏感さを備えるように育てる。また、感受した他者の観点から自分自身を見つめ、それまでの行動や考え方を改めていく素直さも重視する。

 ここで注意すべきは、気持ちを感受すべき「他者」には非常に幅広いものが含まれるということである。前述の通り、権力者や目上の者だけでではなく同等あるいは目下の者も含まれる。

 また、同時代の者だけではなく、すでに亡くなった人々も含まれる。柳田国男によれば、日本の伝統的死生観の特徴とは、人は亡くなってもそう遠方には行かず、「故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを顧念している」と考えてきたことにある。「草葉の陰から見ている」という表現にあるように、死者はわれわれを常に見守っていると考えたのである。墓参りやお盆の行事を大切にしてきたのは、過去の世代の人々に思いを馳(は)せる感受性を養うためでもある。過去の人々の観点から自分自身の存在を見つめる、いわば歴史の縦軸を意識することの大切さを教えようとしてきたと理解することもできる。

 また、動植物など人間以外の生き物への配慮も日本人は重視してきた。例えば、食前に「いただきます」と唱え、食材への感謝を示すのもこの表れである。さらに言えば「もったいない」という言葉に表されているように、モノへの配慮や感謝も大切だと考えてきた。針供養や包丁供養の慣習からもこの点はみてとれる。

 このように日本の道徳では、本来、万物・万人といってもいいほどさまざまな対象に気を配り、その「気持ち」に配慮すべきだとされてきた。多様な者やモノの観点から自分を見つめ、それらとの関係のなかで、反省を繰り返し、時には厳しく自分を律することが必要だと考えられてきたのである。

 しかし、現代では、お盆や墓参りの習慣は衰え、「ご先祖様が草葉の陰から見ている」と教える親も少なくなった。「もったいない」の精神も忘れられがちである。日本の道徳の可能性が矮小(わいしょう)化されつつあるのではないか。そのため「忖度」も「おもねり」としてしか理解できなくなってしまったのではないか。「忖度」が、冷笑気味に使われるのを見ると、日本人自身が、日本の道徳の豊かさを理解できなくなりつつあるように思われてならない。

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【プロフィル】施光恒

 せ・てるひさ 昭和46年、福岡市生まれ、福岡県立修猷館高校、慶應義塾大法学部卒。英シェフィールド大修士課程修了。慶應義塾大大学院法学研究科博士課程修了。法学博士。現在は九州大大学院比較社会文化研究院准教授。専攻は政治哲学、政治理論。近著に『英語化は愚民化』(集英社新書)。