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【夢を追う】九州大「起業部」顧問・熊野正樹さん(2)取引先の経営者に感化

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【夢を追う】
九州大「起業部」顧問・熊野正樹さん(2)取引先の経営者に感化

「やればできる」。変な自信を持っていたという 「やればできる」。変な自信を持っていたという

 《富山県で生まれた。母校の県立富山中部高校は地元の名門校で、卒業生には平成14年ノーベル化学賞受賞者、田中耕一さん(58)もいる》

 小学生の頃は柔道少年でした。小1から6年まで県大会を6連覇しました。自分で言うのも何ですが、学校の成績も良く、文武両道を実践した。

 高校はラグビー部に全力投球。あまり勉強はしませんでしたが、「やればできる」という変な自信はあった。

 祖父が和菓子店を営み、親類に商人や教員が多かった。小さい頃から、将来は経営者か教員というか研究者になりたいと考えていました。

 《京都の同志社大へ進んだ。しかし、足は大学ではなく、海外に向いた》

 東京の予備校で1年間、浪人生活を送りました。早稲田が第1志望でしたが、同志社と縁があったのでしょう。商学部に進学しました。

 自由な4年間を謳歌(おうか)しました。今の立場(九大准教授)では、口が裂けても言えませんが、大学にはあまり行かなかった。

 どこへ行っていたかというと、海外旅行にはまっていました。いわゆるバックパッカーです。当時、春休みと夏休みがそれぞれ2カ月あったので、1年の3分の1は海外の安宿を転々としていました。1年生の時、10単位しか取れず、4年で卒業は無理かとも思いましたが、何とか卒業できた。

 《生まれ故郷の富山を拠点とする地方銀行へ入った》

 2年間働きましたが、銀行の仕事が私には向かず、正直辛かった。

 何せ新人研修の時からつまずいた。2週間で3回寝坊して、3回目には立たされた。反省文も書かされました。京都の支店に配属されたのですが、毎日、上司に叱られに行っているようなものでした。細かい仕事上のルールがあり、そうしたことを、きちっとできなかった。

 でも、取引先として知り合った企業経営者に引かれました。みんな悠々と、自分の人生を歩んでいる。私は毎日叱られているのに、活躍している人はすごく活躍し、生き生きしていた。

 「このままじゃだめだ」。環境を変えたいと思いました。少年時代からなりたい職業の一つ、経営者への思いが強まった。起業を志し平成11年、銀行を辞めて同志社大大学院の商学研究科へ入った。

 《大学院ではなく、現場で起業を学ぶことになる》

 恩師は「授業だけ受けていても起業などできない。紹介してやるから外で勉強しろ」というスタンスでした。

 こっちは学費を払っているのに、「君たちは起業を目指しているのに、なぜ大学院なんか来ているんだ!」と叱るんです。結局、ベンチャーを顧客とした経営コンサルティングの会社を紹介され、研修として働くことになりました。

 上場を目指す起業に張り付き、会社に寝泊まりしました。しんどい日々でしたが、銀行と打って変わって楽しかった。現場で法務の大切さも知りました。

 その後、知り合いの東京のテレビ番組制作会社に、役員として迎えられました。銀行時代は「お前は大ざっぱだ」と言われてましたが、制作会社では「元銀行マンだから細かいね」と評価されました。所変われば品変わる、とはよく言ったものです。テレビ業界や芸能界とのネットワークもでき、有意義でした。

 その後、神戸のIT(情報技術)系ベンチャーに転職しました。ここでは、業務提携やM&A(企業の合併・買収)を担当したんです。他社への投資にも関わり、投資をする側の仕組みも学びました。億単位の利益を出したこともありますよ。

 いろんな仕事のやり方を覚えて自信もつきました。平成17年12月、映像制作とコンサルを手掛ける会社を興しました。11年に起業を志してから、すでに6年の歳月が過ぎていました。