産経ニュース

【夢を追う】整形外科医・池本和人さん(4)おわり 一生、子供の健康守る

地方 地方

記事詳細

更新

【夢を追う】
整形外科医・池本和人さん(4)おわり 一生、子供の健康守る

「生涯、校医でありたい」と語る池本和人さん 「生涯、校医でありたい」と語る池本和人さん

 《長年、学校医を務めた》

 教育への思い入れが強いんです。振り返ると、私自身恩師に恵まれた。特に研修医時代、東京大医科学研究所の山本正所長にはお世話になりました。

 山本先生は、海軍の軍医出身で、真珠湾攻撃にもついて行ったそうです。チャンスは与える。あとは自分で勉強せよ-。こんなスタンスでした。

 研修を終えて、いよいよ故郷に帰るとき、クラシックのコンサートに連れて行ってくれた。田舎者の私にとって、初めての経験です。気後れしましたし、クラシックなんかよく分からなかった。

 コンサート後、当時はごちそうだったトンカツを食べさせてくれた。そこで先生に、こんなことを言われました。

 「曲は全然聴いていなかったろ。隣にいたら分かる。でもな、オーケストラは指揮者の棒の動き一つで、何十人もの音楽家が一斉に演奏を始め、ぴたっと終える。帰ったら、一回は棒を振ってみなさい。どんな組織でもいいから、指揮官になるんだ。そこで見える景色は全く違う」

 診療所を開業したのは、先生のこの言葉があったからです。

 医師としての精神を学んだのが山本先生とすれば、技術を教えてくれたのは、鳥取大時代の指導教授だった西尾篤人先生です。

 当時35~36歳で、最年少の教授だったと思います。足の軟骨に変形が生じる小児病、ペルテス病の研究に、熱心に取り組んでいました。「将来役に立つから」と、肢体不自由児の寄宿舎に、勉強に行くようにも言われました。

 2人の恩師に私は導かれた。今の私があるのは教育の力です。それを何とか還元したい。そう思う中で、母校である萩市立三見中学の校医になろうと決意しました。

 《当時、整形外科医の学校医は例がなかった》

 内科や小児科医しか校医になれないという、慣習のようなものがあったんです。

 でもおかしいでしょう? 小さな街ですから、開業医の私は、子供の親や祖父母まで知っている。病歴も家庭環境も分かることがどれだけ大きいか。医師会に直談判に行きました。

 「小学校は小児科医が適切でしょうが、中学生なら問題ない。そもそも医師はオールラウンダーだし、スポーツ障害などの問題も抱える中学生には、整形外科医が果たせる役割も多いはずだ」

 こう言って押し切り、昭和63年、学校医になりました。

 年1回の定期検診に加え、運動会では張り切りました。

 救急箱を抱えて観戦し、夜は先生や保護者との打ち上げの酒席です。頼まれたら、ほかの学校にもボランティアで行きました。決して、お酒を飲みたかったからじゃないですよ(笑い)。

 親とも教師とも違う、学校医という距離感で果たせる役割もあるんです。

 都会から転入し、クラスで浮いている生徒がいました。母親が離婚し、いわゆる「出戻り」です。田舎ですから、その子の祖父も世間体を気にして、あまりよく接しない。学校にも家にも居場所がなかったのでしょう。

 私はね、子供と遊びながらゆっくり聞き出すんです。

 その上で、祖父に「孫だろう? 意地を張らずに受け入れてやってくれ」と頼みました。時間の経過も一役買ったのでしょうが、徐々に落ち着きました。

 「何かあったら校医に言って」。これが私の口癖でした。用事がなくても学校に行き、子供に声をかける。「将来何になりたい?」とかね。給食を一緒に食べたこともあります。

 保護者と話すときには、「生徒の前で、学校や教師への不満を口に出すのは控えてほしい」と口を酸っぱくして言いました。子供の健康は、体だけでなく、精神面の安定からももたらされる。そう思えばこそです。

 校医は今年の3月で退きましたが、今も時々、学校に顔を出します。出過ぎたまねをするつもりはありませんが、私は死ぬまで医者であり、「校医」であり続けたいと思っているんです。(聞き手 大森貴弘)