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【今こそ知りたい幕末明治】(40)佐賀市内、幻の路面電車

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【今こそ知りたい幕末明治】
(40)佐賀市内、幻の路面電車

佐賀市内を走った幻の路面電車。旧国益マオラン株式会社所蔵の動画より合成 佐賀市内を走った幻の路面電車。旧国益マオラン株式会社所蔵の動画より合成

 □本間雄治氏

 幕末、佐賀藩は「技術立藩」であった。先駆けて蒸気機関車の小型模型を作製した実績があり、わが国における鉄道の先覚者といえる。だが、明治維新後の佐賀は、鉄道分野で後れを取ってしまった。

 明治22年4月1日、佐賀市が誕生した。それから2年後の24年8月20日、九州鉄道「佐賀支線」の鳥栖、中原、神埼、佐賀の4駅が同時に開設された。実に維新から24年後の鉄路開業であった。

 後の話になるが、ここで出る九鉄は明治40年7月、国有鉄道となり、現在のJR九州につながる。西日本鉄道(福岡市)の前身の一つも「九州鉄道」というが、これは同名の別会社である。

 佐賀の九鉄は当時、私有鉄道であり民間事業であった。佐賀県代表として奮闘し、この大事業を成し遂げ、九州鉄道取締役に就任したのが佐賀財閥の一人、伊丹文右衛門だった。

 しかも鳥栖からの鉄道開設工事を請け負ったのは「伊丹家振業社」であり、文右衛門は佐賀駅誕生の功労者といえる。

 ただ、佐賀市内の交通網整備は、他都市に比べ遅れた。

 明治37年、佐賀馬車鉄道が、片田江と当時の物流集積地であった「大川口諸富津」までを結んで開業した。馬車鉄道(馬鉄)とは、レール上の客車を馬が引く輸送方法だ。

 佐賀馬鉄は翌年、佐賀駅から唐人町、県庁通り、堀端を東進し老舗「楊柳亭」の前を経て片田江と繋がる。

 大正元年に馬鉄は佐賀軌道と改称され、同8年9月に川上軌道と合併した。

 川上軌道は、小さな蒸気機関車による軽便鉄道だった。だが、軽便が佐賀市内に入ることはなく、市内はいまだ、客車を引く馬のいななきが聞こえた。

 福岡市など周辺都市にはすでに、路面「電車」が普及していた。福岡の九州電燈鉄道(こちらも西日本鉄道の前身)の社長は、佐賀財閥の伊丹弥太郎であった。

 それでも佐賀市内の交通インフラは、馬鉄であった。馬と電車を比べれば、「馬力」が大きく違う。佐賀市内の交通インフラは脆弱(ぜいじゃく)だったといえる。

 佐賀市の路面電車化が実現したのは、維新から60年以上経過してからだった。昭和5年から12年まで、佐賀駅北西の神野から景勝地「川上」間の約8キロを路面電車が走った。その名も「佐賀電気軌道株式会社」だった。

 短期間、短距離。幻のような路面電車であり、佐賀市内に路面電車が走っていたことを知る市民は少ない。

 ちなみに大正の初め頃、「九州中央鉄道」という構想が、佐賀商工会議所で審議されていた。福岡県大牟田から柳川、大川、筑後川鉄橋、諸富を経て佐賀県庁の南に「第2の佐賀駅」をつくり、さらに延伸し国鉄久保田駅に連結する。まさに現在の有明海沿岸道路の鉄道版である。

 この計画は、後の昭和10年開業の国鉄佐賀線(現在廃線)実現に影響は与えただろう。だが、計画そのものが日の目を見ることはなかった。

 もし九州中央鉄道が実現していたなら、佐賀空港の開設や国際化は現実よりはるかに早く、佐賀は大飛躍していただろう。

 歴史に「if」を投じよう。もし佐賀空港が、九州の国際ハブ空港となっていれば、佐賀市内には幻ではなく、今頃LRT(次世代型路面電車)が走っていた。そう思うのは筆者だけだろうか。歴史から学ぶこと多しである。

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【プロフィル】本間雄治氏

 福岡、佐賀両県の明治大正の実業家の歴史などを研究する。昭和24年生まれ。佐賀大学卒、民間企業を経て平成17年からNPO法人「大川未来塾」(福岡県大川市)で、筑後川水系の活動に従事、18年にNPO法人「みなくるSAGA」(佐賀市)を設立。佐賀市在住。