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【夢を追う】整形外科医・池本和人さん(2)「三浦君」とカルテで再会

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【夢を追う】
整形外科医・池本和人さん(2)「三浦君」とカルテで再会

退院後、九州大病院を再訪。淡い恋心を抱いた村瀬トミ子さん(右)と 退院後、九州大病院を再訪。淡い恋心を抱いた村瀬トミ子さん(右)と

 《高校時代、九州大病院に入院した》

 幼いころから右手に障害がありました。近所の人が九大病院の整形外科を紹介してくれ、きれいに治ると言うんで入院しました。2年生の冬休みでした。

 炭鉱などの労働災害が多い時代でした。けがをした作業員が大勢、入院していた。指や腕をなくした方も多かった。それでも、不思議と暗い雰囲気はなかった。

 医師のはちゃめちゃぶりが、大好きでした。

 冬休みといえば、クリスマスです。若い医師は中洲に繰り出し、夜中に看護婦さんの詰め所にやってきて、2次会です。目当ての看護婦さんを口説き始め、周りはそれを冷やかす。

 患者もひどかった(笑い)。病院の食堂に言って、夜食としてラーメンやうどんを出前させるんですよ。食堂のおばちゃんも心得たもので、出前の箱には日本酒のカップが入っていました。

 長期入院の患者は、時代劇で見る「牢名主(ろうなぬし)」のようでした。気分転換と称して、競艇(ボートレース)に行くのも、日常茶飯事です。

 面白いのは、退院のときは皆「先生、嘘を言ってすみませんでした」と謝る。でも医師はそんなこと、とっくに見抜いてる。

 良い意味でずぼらで、ざっくばらん。治療を離れたら患者と人間的に付き合う。整形外科医って格好良いな、と思いました。

 《入院患者に、同じ萩出身の少年がいた》

 11歳の男の子で、「三浦君」と言いました。自宅が1キロも離れていなかった。互いに不安な入院生活。すぐに仲良くなりました。

 三浦君は左足を太ももから切断していました。「骨の溶ける病気」「全身の骨が腐る病気」。周囲の人は、彼の病気をこんな風に言っていました。当時の私には見当もつきません。

 それでも彼は松葉づえをつき、片足で器用に歩き回っていた。年下でも、入院歴は三浦君の方が「先輩」です。元気に院内を案内してくれました。

 病院の裏庭に回ると、実験動物がたくさんいました。好奇心の強い私たちにとっては、とっておきのスポットでした。当時、院内で義手や義足も作っていました。職人さんと仲良くなって、入院生活とは思えないほど楽しかった。

 でもいつの間にか、彼が私の所に来なくなりました。

 私が1カ月の入院生活を終え退院の日、村瀬トミ子さんという看護婦さんから、彼から言付かったという赤い風船をもらいました。村瀬さんには入院中、いろいろと世話をしてもらい、ほのかな恋心も抱いていました。それもあって、印象深く覚えています。

 「見送りに来られないほど悪いのだろうか」。心の中は不安で一杯でしたが、何も聞けませんでした。聞いてはいけないような気がしたんです。

 《入院を機に、整形外科医を目指す》

 鳥取大を卒業して、希望して九州大病院に研修に来ました。そこでようやく、ずっと気になっていた彼のカルテを見ることができたんです。

 骨肉腫でした。骨のがんです。そして、私が退院した数日後、三浦君は、11歳の短い生涯を終えていたと知りました。

 その後、医師として国立がんセンターや鳥取大病院などで、多くの骨肉腫の患者さんを担当しました。10代での発症も多い病気です。「なぜ自分が」「なぜ自分の子供が」。告知すると患者さんや家族は、必ず泣きます。その涙を見るのが辛く、背中を向けていました。

 医師として切除のほか、抗がん剤や免疫療法など、さまざまな方法を試みました。それでもこの病気は、これでもかと幼い命を奪っていきます。そのたびに、脳裏に浮かぶのは「三浦君」でした。

 40歳で診療所を開いてからは、骨肉腫を診る機会は少なくなりました。でも、今も赤い風船を見ると、三浦君を思い出します。私を整形外科医に導いてくれた原点が、赤い風船にあるような気がするんです。