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【衝激の色彩 関谷富貴の軌跡】(2)生涯 作品の発表断り「夫を世に出す」

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【衝激の色彩 関谷富貴の軌跡】
(2)生涯 作品の発表断り「夫を世に出す」

 奔放な色彩と激しい筆致の絵画200点近くを残していた関谷富貴(ふき)(1903~69年)の調査は親族の提供した戸籍謄本1通からのスタートだった。生前、作品を発表したことがない富貴に関する文献は皆無。県立美術館(宇都宮市桜)の学芸課長、杉村浩哉さん(59)は刑事の聞き込みのような調査を始める。「手がかりなく半年が過ぎたが、年賀状が見つかり、1人、2人と富貴を知る人を訪ねた」。何時間も話をする高齢女性もおり、他の知り合いも次々と見つかった。

 富貴は旧伊王野村(那須町)出身で、戸籍上の名前は関谷カネ。旧姓・三森。母の姉は画家、関谷雲崖(うんがい)(1880~1968年)の妻だった。富貴の夫で洋画家、関谷陽(よう)(1902~88年)は雲崖の長男で、富貴と陽はいとこ同士。陽は「たかし」と読むが、作品の署名は「YO」としていた。旧両郷村富貴田(ほうきだ)地区(大田原市河原)が陽の故郷だ。

 遺族も富貴の本名が「カネ」だったという意識はなく、少なくとも後半生はこの名で通していた。10代で兄を中心に家族で東京・本郷で生活していたが、両親や兄は間もなく死去。「10代で両親を失い、何度か境遇の変化を経験した彼女が自らの帰属する場所として富貴田の地を思い、富貴を名乗った」。杉村さんは富貴の名の由来は富貴田の地だったと推論する。

 富貴の少女時代は不明。大正14(1925)年、22歳の富貴は陽の絵のモデルになっている。1930年代、陽は従軍画家として戦地に赴いた。その前後、富貴と陽は夫婦として東京都世田谷区松原で生活を始めていた。ただ、2人が婚姻届を出したのは昭和28年。富貴が49歳のときだった。

 「この人は電車の切符も買えない人ですから」。杉村さんの調査からも、芸術家然として生活にはうとかった夫を支えるしっかりした妻の姿が浮かび上がる。残った写真を見ても表情は穏やか。

 激しく奔放な色彩と筆致の絵を見ると、内に秘めていたエネルギーとの差異にまた関心が高まる。作品の発表を勧める人もいたが、富貴は「私の仕事は夫を世に出すこと」と言って断っていた。

 県立美術館の企画展「共鳴する魂 関谷富貴と小山田二郎」(12月24日まで)の初日に来館した宇都宮市の西川佳子さん(76)は「自分も趣味で油絵を描いてきた。夫を支え、生活や社会に対する思いを内に秘め、多くの女性は自分を押し殺してきた時代。彼女の制作意欲、内面の心の強さは分かる気がする」と話した。

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 暗い赤紫や黒い緑など深い色が富貴の作品を最初に見たときに印象に残ったが、今回の企画展では作風が意外と幅広いと感じた。同じような激しい画面構成でも透き通るような淡い色彩の作品もあるし、抽象画が多いが、人の顔は多様な表現で再構成され、花、鳥と分かるもの、象形文字っぽいものもある。「もしかして室内風景では…」。見るたびに違うように見える作品もある。(水野拓昌)