産経ニュース

【今こそ知りたい幕末明治】(36)勝敗を左右した「両敬」関係

地方 地方

記事詳細

更新

【今こそ知りたい幕末明治】
(36)勝敗を左右した「両敬」関係

老中時代の小笠原長行(『小笠原壹岐守長行』より) 老中時代の小笠原長行(『小笠原壹岐守長行』より)

 慶応2(1866)年の長州戦争小倉口の戦いの勝敗を決定付けた要因の一つに、小倉藩小笠原家、長州藩毛利家の両家と、九州諸藩との関係性を挙げることができる。

 同6月3日、小倉城下馬借(ばしゃく)町付近の開善寺に唐津藩世子(後継ぎ)で老中の小笠原長行(ながみち)(壱岐守)が到着した。「九州総督」として幕府方の軍勢を指揮するためで、長行が自ら買って出て任命された。唐津藩小笠原家の祖は、小倉藩初代藩主小笠原忠真(ただざね)の弟、忠知(ただとも)であり、唐津藩にとって小倉藩は宗家にあたる。

 下関口(小倉口)には、九州諸藩が幕府から出兵を命じられた。だが、実際に長州藩領と接する小倉藩領企救(きく)郡まで軍勢を進めたのは、小倉新田藩、播磨国安志藩(現兵庫県姫路市)、唐津藩の小笠原勢、それ以外では、熊本藩細川家、久留米藩有馬家、柳川藩立花家勢くらいであった。

 そのため、下関に攻め込むことができず、逆に長州勢から小倉藩領に攻め込まれることになり、3度にわたる小倉口における戦いとなった。

 戦いは6月17日明け方、長州勢の田野浦(北九州市門司区)奇襲から始まった。小倉勢は不意を突かれ、洋式装備の長州勢に抗することができず敗れた。

 2度目、7月3日の大里(門司区)の戦いも、小倉、小倉新田、安志の小笠原勢がほぼ単独で長州勢と戦った。幕府方のはずの九州諸藩の軍勢は傍観し、長州勢が勝利した。これには初戦の敗北に加え、長州側の策略があった。

 6月18日付けで、長州藩の先鋒士官から佐賀や熊本、福岡、久留米、柳川の5藩の軍事役宛てに次のような内容の書簡が送られた。

 「長州藩と5藩は『御両敬(ごりょうけい)』の間柄なので、不和になる理由はなく、戦争に及ぶつもりもない。(中略)今回の長州征討では、率先して小倉藩が開戦を主張したと聞いている。憎むべき狡猾さは言うまでもない」

 「両敬」とは、江戸時代の武家(大名・旗本など)の交際のあり方で、双方同等の敬礼を用いることである。婚姻などにより親戚となった両家が、それを契機として親密な付き合いを継続するものである。

 長州藩は九州の有力5藩と両敬関係にあり、それを利用して幕府軍を解体しようとしたのである。

 ただ、小倉藩にも両敬関係の藩は多くあった。例えば慶長14(1609)年、小笠原忠真の妹、千代姫(保寿院)が、のちに熊本藩初代藩主となる細川忠利に嫁いだことをきっかけに、細川家と両敬関係となった。

 7月27日の赤坂・鳥越の戦いは、小倉藩と両敬関係の熊本藩勢の陣を長州勢が攻撃した。熊本勢は洋式装備でかつ大軍であり、小倉勢とともに長州勢を撃退した。3度目にして初の幕府方の勝利であった。

 熊本勢奮戦の理由は色々あろうが、その一つは約210年前にさかのぼる。

 熊本藩2代藩主細川光尚が31歳で亡くなり、7歳の六丸(のちの3代細川綱利)が幼少ということを理由に、細川家の国替えや改易などが幕閣で議論された。前述のように光尚の母は、小笠原家から嫁いだ千代姫であり、小笠原忠真は六丸の大伯父にあたる。この忠真が後見役となることで、六丸は家督相続、本領安堵されたのだった。

 一方、福岡藩黒田家と小倉藩も両敬関係にあったが、小倉口の戦いの際、福岡勢は藩境の境川を越えず、自領の警備にあたるばかりであった。

 3度目の戦いで勝利した小倉勢であった。だが、その後予想だにしない身内の行動で、小倉口の幕府軍が崩壊した。総督の小笠原長行が突如、小倉を脱走したのである。

 将軍徳川家茂が病没したという知らせが届き、長行は7月30日、密かに本営を抜け出し、幕府軍艦富士山丸で、長崎方面に去った。

 幕府老中でもあった長行としては、次の将軍への一橋慶喜擁立をめぐり、同じ老中の板倉勝静と相談する必要があったため、長崎経由で大坂に戻った。

 だが、総督が脱走した小倉口では、諸藩の軍勢が次々と帰国し、小倉、小倉新田、安志藩の小笠原勢だけが取り残された。「小倉藩のいちばん長い日」、小倉城自焼の前日のことであった。

                   ◇

【プロフィル】守友隆氏

 もりとも・たかし 昭和56年、山口県柳井市生まれ。九州大文学部卒、同大学院博士課程修了。博士(比較社会文化)。平成23年4月から北九州市立自然史・歴史博物館(いのちのたび博物館)学芸員。今年10月7日から12月3日まで開催の特別展「最後の戦国武将 小倉藩主 小笠原忠真展」担当。

このニュースの写真

  • (36)勝敗を左右した「両敬」関係