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【今こそ知りたい幕末明治】(35)実業家も招いた磁器の道

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【今こそ知りたい幕末明治】
(35)実業家も招いた磁器の道

 佐賀を代表する工芸品といえば、有田(ありた)焼がある。この磁器を全国に名の知れた特産品としたのは、紀州箕島(和歌山・有田(ありだ))の商人の力が大きい。焼き物の流通ルートに乗って、紀伊から肥前へ、海を渡り、実業家もやってきた。

 江戸後期、箕島商人と呼ばれた人々が、地元黒江村の「黒江漆器」を九州へ船で運び販売した。彼らは「帰り船」に、伊万里で有田焼を買い求め、江戸に運んだ。瀬戸内、玄界灘を経由する流通ルートの確立であった。

 このルートは明治期にも継承された。九州佐賀の有田焼、伊万里焼の名が全国に轟(とどろ)いた一因である。

 この箕島商人の中から、遠く伊万里の地に移住し、佐賀の近代経済発展に貢献した親子がいる。

 池永栄助は、明治23年の「日本全国商工人名録」(国立国会図書館所蔵)の伊万里町商工人名によると陶磁器輸出商とある。

 恐らく彼とその一族は、江戸から続く和歌山~伊万里ルートで商いをしていたのだろう。

 そして栄助は覚悟の上で、新天地に移り住んだ。伊万里での商いは順調だった。貸金業や倉庫業にも進出し、佐賀の経済界において、地歩を固めた。

 彼の長男、栄二は和歌山で生まれ、関西京都商業学校に学ぶ。後に志願兵となり、日露戦争に出征する。陸軍少尉での除隊後は、栄助の片腕として家業の拡大に寄与した。

 大正3(1914)年、栄二32歳の時に、父・栄助が亡くなる。栄二は家督を相続し、2代目池永栄助を襲名した。

 彼は池永商店を法人化し、廻漕(海運)業から連なる西海運輸株式会社の社長に就任した。

 若くして地元実業界で重きをなした2代目栄助は、大正11年創設の伊万里商工会の初代会長となる。

 そして昭和4(1929)年、佐賀県初の私立銀行「伊万里銀行」の常務取締役に就任。51歳になると頭取に昇格する。奇(く)しくも栄助と伊万里銀行は、同じ明治15(1882)年に誕生した。

 昭和14年、大蔵省が進めた銀行統合の流れで、佐賀県西部「伊万里銀行」「有田銀行」「武雄銀行」「洪益銀行(伊万里)」の4行が合併し、「佐賀興業銀行」が設立された。

 銀行マン、経営者としての評価も高かったのだろう。栄助は初代頭取に就任する。

 当時、佐賀県内の金融界は佐賀興業銀行と、大島小太郎率いる唐津銀行の流れをくむ「佐賀中央銀行」(昭和6年設立)に二分されていた。いわば伊万里と唐津の金融機関が、覇を競っていた。

 さきの大戦中、佐賀興業銀行は資金量2億円を達成した。栄助は昭和20年7月、「県内最大の銀行家」として勇退したのである。

 そして、時代は変わる。昭和30年7月、佐賀興業銀行と佐賀中央銀行が合併し、現在に至る佐賀銀行が誕生した。2代目池永栄助は前年に没していた。

 陶磁器と幕末明治に生きた初代池永栄助、実業家として大成した2代目栄助。和歌山生まれの2人がいなければ、佐賀の実業界地図は大きく変わっていただろう。

 池永商店は今も、伊万里の地にユウシード東洋株式会社として健在である。

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【プロフィル】本間雄治

 福岡、佐賀両県の明治大正の実業家の歴史などを研究する。昭和24年生まれ。佐賀大学卒、民間企業を経て平成17年からNPO法人「大川未来塾」(福岡県大川市)で、筑後川水系の活動に従事、18年にNPO法人「みなくるSAGA」(佐賀市)を設立。佐賀市在住。