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「戦後72年」戦艦陸奥・爆沈遭遇の元航空兵重い口開く「遺留品見ると涙が…」 山口

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「戦後72年」戦艦陸奥・爆沈遭遇の元航空兵重い口開く「遺留品見ると涙が…」 山口

 戦前、カルタに詠まれるほど国民に親しまれた戦艦「陸奥」。昭和18年6月、山口県・周防大島沖で停泊中に爆沈し、乗組員1千人以上が犠牲になった。山口県出身の和田鶴夫氏(91)=大阪府高槻市在住=はその日、陸奥に乗り合わせ、九死に一生を得た。生き残りの戦友とは連絡が取れず、これまで体験を語ることもなかった。「もう90を過ぎた。寿命も近いでしょう」。72年目の夏、重い口を開いた。 (大森貴弘)

 昭和18年6月8日。和田氏は土浦海軍航空隊「第11期甲種飛行予科練習生」の一員として、陸奥に乗り込んだ。パイロットを養成する、通称「予科練」だ。

 航空兵といえど、海軍軍人として軍艦の実務を学ばねばならない-。教育課程に「艦務実習」があった。

 午前11時ごろ、霧雨の中、教官を含め計135人が乗艦を終えた。

 昼食を終えたころだった。和田氏は、中甲板の副砲分隊居住区にいた。突然、腹の底から震えるような、重い音が響いた。

 「41センチ主砲の一斉射撃に違いない」

 そう思った。だが音が収まると、艦はゆっくり右、左と1回ずつ傾いた。

 次の瞬間、足下が宙に舞い上がった。床が天井になった。棚や備品が「ザザザー」と音を立てて、落ちてきた。

 気がつくと、首まで海水につかっていた。電灯も消え、暗闇だった。足はつかない。「オーイ」と怒鳴ると、返事があった。「出口はないか」と聞くと「ない。見当たらない」。何かを伝いながら、手探りで動くと、ぼんやりとした光が、水中に見えた。

 覚悟を決めて潜った。光を目指して頭から突っ込んだ。するりと脱出し、数秒で海面に出た。

 「舷窓くらいしか考えられないが、今でもどこから出たのか分かりません」

 目の前に、陸奥の艦底が丘のようにそびえていた。手をかけても、つるつる滑った。流れ出た重油が目に入り、視界が茶色になった。重油混じりの海水が口や鼻もふさぎ、呼吸が苦しくなった。意識を失った。

                 × × ×

 和田氏は大正15年、山口県山陽町(現山陽小野田市)に生まれた。故郷の上空では、海軍の練習機が毎日のように訓練飛行をしていた。大空を飛び回る姿にあこがれ、旧制中学校在学中の昭和17年10月、予科練に入隊した。

 カッターに水泳、モールス信号…。訓練は厳しかった。同期生は皆16、17歳だった。みんなが色めき立ったのが艦務実習だった。和田氏らにとって、巨大な戦艦は未知の世界だった。緊張もあったが、期待も大きかった。

 昭和18年6月6日、茨城・土浦駅から専用列車に乗り、広島・呉に向かった。車中で演芸会が催され、隊員が民謡や歌など特技を披露しあった。

 「にぎやかな汽車の旅で、厳しい訓練も忘れるほど、楽しかった。あんなことになるなんて、思いもしなかった」

                 × × ×

 陸奥爆沈後、和田氏の意識が戻ったのは夜中だった。軽巡洋艦「龍田」の甲板に、素っ裸で寝かされていた。尿意を催し舷側に立つと、急に気分が悪くなった。大量の重油を吐いた。夜目にも、口から出る黒く長い帯が見えた。海軍病院に収容された。

 けがは軽かったが、ベッドに寝かされたままだった。爆沈時の聞き取り調査などを終えると、誓約書を書かされた。

 「今回の艦務実習について、一切口外いたしません」

 模範文を見ながら、わら半紙に書き、署名押印した。陸奥の爆沈は、海軍にとって重大機密だった。

 本来の実習期間だった2週間弱がたつと、他の艦で実習した同期生らと合流し、帰路についた。陸奥に乗艦した同期生は100人以上いたが、一緒に帰れたのは6人だったと記憶している。他の同期生の行方は、全く分からなかった。

 土浦で再び猛訓練が始まった。だが、陸奥爆沈の事実は固く伏せられた。亡くなったであろう同期生の家族に、伝えられることはなかった。

 家族は、ごちそうを詰めた重箱を抱えて面会に来ても、門で引き返した。

 「会えるはずがないと、私は知っているわけです。どんな理由を告げられていたのか…。心が痛みます」

 和田氏はその後、対潜哨戒機の通信員となり、日本海や東シナ海の哨戒活動に従事した。米潜水艦への爆弾投下も経験し、秋田県で終戦を迎えた。

 戦後、仕事の都合で郷里の山口県を離れ、大阪に移住した。あの日のことは、はっきりと覚えている。だが、混乱した時代を生き抜くのに懸命だった。

 同期生の連絡先は知らなかった。亡くなった人々に思いをはせれば、陸奥に関することへ、なかなか足が向かなかった。

 今は妻と2人で暮らす。

 「10年ほど前、妹に連れられ陸奥記念館に行きました。展示された遺留品を見ると、自然に涙がこぼれた。交戦中なら覚悟もあったでしょうが、安全なはずの停泊中です。無念だったでしょう。でも、私も間もなくですよ」