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熊本・菊池飛行場ミュージアム「義烈空挺隊と健軍飛行場」展示会

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熊本・菊池飛行場ミュージアム「義烈空挺隊と健軍飛行場」展示会

 さきの大戦末期、熊本から沖縄へ出撃した旧陸軍特殊部隊「義烈空挺隊」に関する展示会「義烈空挺隊と健軍飛行場」が、熊本県菊池市泗水町の戦争資料館「菊池飛行場ミュージアム」で開かれている。同隊は敵飛行場に強行着陸し、制圧または破壊を任務とした。同資料館を運営する「花房飛行場の戦争遺産を未来につたえる会」(倉沢泰代表)が企画した。(谷田智恒)

 昭和19年7月、米軍がサイパン島を占領し、B29爆撃機による本土への空襲が本格化した。義烈空挺隊は、こうした戦況悪化を背景に誕生した。

 空襲を阻止しようと、まずB29の発進基地であるサイパン島の飛行場を破壊する作戦が計画された。浜松の空挺隊員を中心に、陸軍中野学校出身の諜報員も含めて編成された。

 同年12月24日に出撃する予定だった。だが、サイパンへの中継補給基地だった硫黄島方面へ、連合国軍の攻撃が厳しくなり、作戦は中止となった。

 20年春に沖縄戦が始まる。沖縄本島の北(読谷)飛行場と中(嘉手納)飛行場は、米軍に占拠された。両飛行場から出撃する米戦闘機に、特攻機を含め、日本側の飛行機が撃墜されるようになった。

 そこで「義号作戦」が立案された。義烈空挺隊が沖縄の飛行場を強襲し、戦闘機や施設を爆破。飛行場の機能がまひしている間に、沖縄周辺の米艦隊に、陸海軍が一斉攻撃を仕掛けるというものだった。

 義烈空挺隊に課せられたのは、防御態勢を整えた飛行場へ強行突入し、さらに米軍機を破壊するという、生還の見込みの極めて低い任務だった。事実上の特攻だった。

 20年5月24日午後6時40分。義烈空挺隊計168人を乗せた陸軍の九七式重爆撃機12機が、健軍飛行場を飛び立った。4機は機体故障などで帰還した。沖縄へ到着した8機のうち6機は北飛行場、2機は中飛行場へ突入した。

 激しい対空砲火にさらされ、上空で撃破された。ただ1機、北飛行場への胴体着陸に成功した。10人ほどの武装した空挺隊員が、飛行場に降り立った。米軍機を破壊し、航空機用燃料の入ったドラム缶集積所を爆破した。7万ガロンの燃料を焼失させた。そして全員、戦死した。

 ■別れの水杯

 展示会では、義烈空挺隊や健軍飛行場の歴史に関するパネル7枚や、平和祈念展示資料館(東京)所蔵の写真19点が並ぶ。

 当時の従軍カメラマンが撮影した写真には、別れの水杯をくみ交わす姿や、出撃前にタバコを燻(くゆ)らす隊員が映っている。モニターでは当時のニュース映像も放映している。

 空挺隊が飛び立った健軍飛行場は、現在の熊本市東区長嶺地区にあった。

 「熊本から168人もの特攻隊員が出撃した歴史を、もっと多くの人々に知ってほしいと思った」。

 企画した同会副代表の永田昭氏は、こう語った。

 展示会には、義烈空挺隊の援護爆撃を担った重爆攻撃隊第110戦隊に所属していた、倉原義友氏(89)=菊池市在住=も協力した。

 倉原氏は当時、17歳の少年兵で、階級は伍長だった。第6航空群司令官の菅原道大中将が「義号作戦」の遂行を訓示し、「義烈空挺隊は大事な仕事をする部隊」と感じたという。

 出撃前に隊員に配られた夕食は、巻き寿司(ずし)3本にサイダー1本、ミカン缶詰などだったと記憶する。

 倉原氏は「みなさん、いつもと変わらず粛々と任務に当たっていた。決してぜいたくもしていない。苦しみながら、祖国のため必死で戦った戦友の事実を後世に伝えたい」と願う。

 「奥山に 名もなき花と 咲きたれど 散りてこの世に 香りとどめん」

 義烈空挺隊の今村美好曹長の辞世の句だ。

 健軍飛行場の周辺は現在、宅地化が進んだ。大きな病院や県立大学も建つ。こうした日本の繁栄は、尊い犠牲の上にある。

 展示は8月末まで。開館は午前10時~午後4時。入場料100円。問い合わせは同会の小山内稔事務局長(電)090・8227・6311。