産経ニュース

【今こそ知りたい幕末明治】古城春樹氏 長州諸隊の興亡

地方 地方

記事詳細

更新

【今こそ知りたい幕末明治】
古城春樹氏 長州諸隊の興亡

奇兵隊を結成した高杉晋作(国立国会図書館より) 奇兵隊を結成した高杉晋作(国立国会図書館より)

 長州藩では、文久3(1863)年5月10日から下関(関門)海峡を舞台に攘夷を決行した。主体は、久坂玄瑞らが下関で結成した光明寺党だった。わずか数十人ながら、ひたすら攘夷を進めていく強烈な集団であった。

 最初は、アメリカ商船が標的となった。続いて5月23日にフランス軍艦、26日にオランダ軍艦を攻撃した。海峡は沸き立った。

 しかし、5月下旬に久坂や野村靖など光明寺党の主要構成員が京都に向かう。6月1日には、アメリカ軍による報復攻撃で、萩藩は軍艦3隻を使用不能にされた。

 6月5日、萩藩府は高杉晋作に下関出張を命じた。目的は、欧米列強から下関を守るための防御体制の立て直しにあった。もちろん藩府は、晋作だけを派遣したわけではない。国司信濃や広澤真臣ら有能な藩士を順次送り込んだ。

 晋作が下関入りしたのは翌6日のこと。早速、土屋蕭海(矢之助)や入江杉蔵(九一)らと謀って、光明寺党の下関残留組を基軸に一隊を結成し、藩の公認を得た。長州諸隊の代表格「奇兵隊」の誕生である。

 入隊条件は、士卒(武士・足軽・中間)であることだが、実質は有志の民間人にも入隊を許した。従って士庶混合の軍隊ということになる。

 長州において、民間人の戦闘員化はこの時期、特に珍しい話ではない。というのも、奇兵隊の設立以前から、藩や有力家臣による農兵の編成・調練が実施されていたためだ。例えば、長府藩では安政2(1855)年に、彦島で農民を集めて調練を施し、警護にあたらせている。

 だが、奇兵隊は従来の予備的・補充的な存在の農兵部隊とは、趣を異にしていた。必ずしも藩の命令に従うとはかぎらない点だ。

 要するに、主体性を持ったということだが、視点を変えれば、自らの正義を振りかざし、暴発する可能性を孕(はら)んだ武装集団ともいえる。その危険性は、奇兵隊と同時期に設立された長州諸隊の大半にもあてはまる。

 士気盛んな諸隊は、危機にひんした長州藩を幾度も救った。が、しばしば問題を起こして藩を困惑させてもいる。慶応元(1865)年5月に、萩藩の世子、毛利広封(元徳)は、諸隊の存在を「甚だもって困り入り候」と漏らしている。戦時には必要な存在である一方、藩の重荷にもなっていた。

 明治2(1869)年、戊辰戦争が終わると、萩藩では版籍奉還に伴う藩政改革で、諸隊士約5千人のうち、3千人を解雇することにした。解雇の対象は農民・商人出身者が多かったようだ。失職した彼らの不満は、従前からの諸隊幹部への疑惑や批判とともに噴出。同時期に発生した農民一揆と結びつき、大規模な反乱となった。

 幕末の元治元(1864)年に、藩政府から解隊を迫られた際には、内紛の末、政府員を追い出して存続した。

 だが、今回は同じ様にはいかなかった。藩府は「逆臣乱賊」として反乱諸隊を鎮圧し、84人の斬首を始め大量の処分を実行。奇兵隊を始めとする諸隊は、ここに姿を消した。

                   ◇

【プロフィル】古城春樹

 こじょう・はるき 昭和43年、山口県下関市生まれ。島根大法文学部卒。民間企業などを経て、平成11年から市立長府博物館に勤務。22年、同館と市立東行記念館の館長。27年から市立歴史博物館館長補佐を務める。「三吉慎蔵と坂本龍馬」「長州と薩摩」などの展覧会を企画した。専門は幕末史。