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【静岡古城をゆく】南北朝時代の三岳城(浜松市) 大規模「二城一連式」

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【静岡古城をゆく】
南北朝時代の三岳城(浜松市) 大規模「二城一連式」

 元弘3(1333)年、鎌倉幕府は滅亡し後醍醐天皇による建武の新政が始まった。しかし、朝廷中心の新政に倒幕の功労者であった足利尊氏が反発。尊氏は持明院統の光明天皇を北朝として立て、国内は南北朝の抗争期に突入した。この抗争に際し、井伊氏は後醍醐天皇の南朝に属することになるが、これは井伊氏の所領が南朝の大覚寺統の荘園・御厨であったことに起因している。

 史料によると、井伊氏は延元2(1337)年7月、北朝の今川範国などと井伊城前で三方原の合戦に及んだ。この井伊城こそ三岳城で、井伊氏は同城を出て三方原で戦ったことになる。延元4年秋には、劣勢に陥った遠江南朝方を支援するために後醍醐天皇の皇子・宗良親王が再び井伊城に入城。これを奇貨として、北朝方が一気に攻勢に出たことが「瑠璃山年録残篇裏書」(大福寺文書)には記されている。

  

 暦応二(延元四)年七月廿二日。為井責越後(高師泰)殿下。大平ニ向給。尾張(高師兼)殿浜名手向給。カモへノ城廿六日追落畢。同十月卅日。千頭峯城追落畢。同次正月卅日ミタケ城追落畢。

 同次年八月廿四日夜大平城□落□□。但当国守護新木(仁木義長)殿落給。

  

 北朝方の攻勢を受け、井伊氏の本城である三岳城をはじめ多くの支城が次々と落とされ、宗良親王はかろうじて信濃へ落ち延びた。

 親王の『李花集』には浜名湖が見えることを詠んだ歌があり、井伊氏が戦時に構えた三岳城に立て籠もり共に戦ったことはほぼ間違いない。同城は、標高467メートルの独立した急峻(きゅうしゅん)な高山で、中央の幅7メートルの堀切を境に2つの山稜に配置した城域は東西600メートル以上と大規模で、南北朝系に多い2つの山城が連なる「二城一連式」構造は、駿河の安倍城・徳山城にも類例する。しかし、現在見られる石積みの横堀などの遺構は後世整備されたもので、戦国期に再び今川氏と緊張する井伊直虎の頃か、その後の武田・徳川両氏抗争期に再利用された可能性が高い。(静岡古城研究会会長 水野茂)