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【今こそ知りたい幕末明治】(10)インフラ築いた伊丹文右衛門

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【今こそ知りたい幕末明治】
(10)インフラ築いた伊丹文右衛門

伊丹家の墓がある専修寺。本堂は伊丹文右衛門が建立・寄進した(佐賀市道祖元町) 伊丹家の墓がある専修寺。本堂は伊丹文右衛門が建立・寄進した(佐賀市道祖元町)

 江戸時代後期、伊丹家は肥前国佐嘉(佐賀)郡本庄町で、佐賀鍋島藩御用達として商いをしていた。

 伊丹家10代目文右衛門は1835年の生まれと推測され、正に幕末を生きた佐賀の実業家である。彼については明治10年ころからの資料が残る。同年2月は西南戦争勃発である、その時政府は「電信電報」を最大の武器として活用した。2月18日の官軍電報に「フカガワ、イタミノコメフウインノホカ、タクワエオキシコメアリ、ゴニュウヨウナレバ、ゴホウチアリタシ」とある。筆者は「深川、伊丹の新米(米封印)のほか、蓄え置きし米有り。ご入用なれば、ご報知ありたし」と解釈する。つまり佐賀深川家、伊丹家より徴用した軍需用の米があり、知らせがあれば送るということだ。従来の三菱・岩崎弥太郎のみでなく地元佐賀の米商店として両家も関わり、大きく利益を得た。

 深川嘉一郎(2月10日付、第5回で登場)の妹が、文右衛門の妻であり、両家は幕末から佐賀の御用商人として、深い関係を築いた。

 明治12年、旧領主鍋島家を中心に発起人26人で「第百六国立銀行」が設立された。文右衛門は発起人の一人でもあったが、15年5月、私立栄銀行を佐賀で創立した。かの日本銀行創立が同年10月である。

 佐賀で近代金融の先陣をきった文右衛門は17年、筑後川下流の諸富津に出張店を置く。その後、伊丹家が中心となり九州鉄道(明治20年設立、後に国有化)や、筑後川改修工事の土木請負会社「振業社」を設立した。これらの事業が、24年の九州鉄道佐賀駅誕生につながる。文右衛門は金融、鉄道と佐賀のインフラを築いた。

 現在の佐賀県神埼市に、伊丹家の別邸の一部だった「九年庵」がある。紅葉の名所で、国の名勝となっている。

 一般的に、九年庵を含む別邸は文右衛門の息子、弥太郎が造ったと記述してある。だが、筆者は若干の異を唱えたい。明治25年完成の別邸は、伊丹家当主の文右衛門が隠居地として、茶室「九年庵」は弥太郎が築造したと考察している。

 別邸から遠望すると当時の九州鉄道佐賀支線(現JR長崎線)、その先に筑後川が見える。彼は自分の業績を見つめながら、余生を過ごそうと望んだのではないか。この地、仁比山には妻まきと、実弟福嶋儀六の足跡もある。残念ながら翌26年、文右衛門は没す。嫡男弥太郎はこの年から伊丹家当主として、文右衛門の事業と別邸を継承し、33年から9年かけて茶室「九年庵」を築いた。

 この文右衛門と弥太郎父子が最も影響を受けたのが、筆者の探査で判明した、関西伊丹の大実業家、11代小西新右衛門である。

 新右衛門は日本銀行創立時の監事であり、山陽鉄道や私鉄阪神電鉄の発起人である。伊丹家父子はこの関西実業界の大立者に習い、彼から事業のヒントを得たと推測する。

 小西新右衛門は西本願寺の直参門徒で、全国に数人しかいない要職に在った。一方、伊丹家父子は唯一の2代にわたる九州代表直参門徒であった。

 新右衛門は本願寺を株主とする「真宗信徒生命保険」(京都、明治28年設立)の社長も務めた。この生命保険の取締役に弥太郎がいた。身近に支えたのだ。

 まだ資料が不足しているが、伊丹父子は肥前佐賀から京都本山に上京し、新右衛門と日本の近代化を語ったに違いない。

 また伊丹家と縁の深い深川家、古賀家も改宗し浄土真宗本願寺派である。佐賀財閥の根底には、事業哲学として浄土真宗の影響が見受けられる。