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【維新伝心150年】肥前佐賀藩・鍋島直正(下)肥前の魂、北海道の礎に

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【維新伝心150年】
肥前佐賀藩・鍋島直正(下)肥前の魂、北海道の礎に

 北海道を守ることは、日本を守ることだ-。肥前佐賀藩の近代化を推し進めた10代藩主、鍋島直正(1815~1871)は、北海道開拓と防衛の必要性に、早くから気付いた。直正の考えに沿って、佐賀藩を中心に多くの九州人が、北海道開拓に尽力した。

 「北方を固めることは、長崎警備と同様に、日本を外国から守るのに不可欠だ」。直正は口癖のようにこう語り、蝦夷地(北海道)に関心を寄せた。

 長崎のオランダ商館長が幕府に提出する世界情勢の解説文書「オランダ風説書」には、列強のアジア進出が詳細に記されていた。長崎港の防衛を担う直正も、この文書を読んでいた。特に気がかりなのが、ロシア帝国だった。

 嘉永6(1853)年、浦賀に来た米国ペリーに続き、ロシアのプチャーチンが軍艦を率いて長崎港に来航した。「南へ勢力を広げようとするロシアにとって、蝦夷地は格好の獲物ではないか」。直正の脳裏に、警報が鳴り響いた。

 直正は幕府の大老、井伊直弼(1815~1860)と馬があった。

 直正の祖父・治茂が、井伊家の姫を娶(めと)って以来、両家は結びつきがあった。直正と直弼は同い年だった。

 何より、正確な情報で列強の力を把握していた2人だけに、危機感を共有していた。

 イギリスの外交官アーネスト・サトウによると、直正はしきりにまばたきをしながら、ぶっきらぼうな口調でしゃべったという。

 そんな直正は、直弼としばしば、政治や歴史について語り合った。北海道も話題に上がった。

 直正は安政3(1856)年、藩士、島義勇(よしたけ)(1822~1874)を北海道に派遣した。島は4カ月かけて、北海道・樺太を調査した。

 「海産物の宝庫だが、現地の役人や商人には不正が多い。蝦夷人(アイヌ)は酷使されている。早急に開拓を始め、彼らを保護すべきです」。島は報告書「入北記」をまとめ、直正に提出した。

 あるとき直正は、直弼に切り出した。

 「天領(幕府直轄領)の天草に、わが藩の港を置かせていただけないだろうか。軍艦の訓練と蝦夷地開拓の予行演習をしたい」

 直弼は許可した。幕府にとって、産業・軍備の近代化を進める佐賀藩の力は、どうしても必要だった。

 直正はさらに、色丹島(千島列島)への停泊権を求め、認められた。

 直正は藩内の豪商・武富家に、北海道との貿易を進めさせた。この取引は、莫大(ばくだい)な利益をもたらした。北海道の防衛とともに、佐賀藩の「富国」という一挙両得だった。

 幕府大老として、倒幕派志士を弾圧した直弼は安政7(1860)年、水戸藩を脱藩した浪士に殺された。「桜田門外の変」だ。「次は直正が狙われる」。そんな風説も飛んだ。

 直正と直弼が話し合った北海道開拓構想は一時、頓挫(とんざ)した。本格的に実行されるのは、維新後だった。

 ◆固い決意

 明治2(1872)年10月。雪がちらつく道を、「サッポロ」に向けて歩く十数人の列があった。一行の中心は、佐賀藩出身の島だった。

 直正は維新後、北海道の初代開拓使長官に任命された。だが病身だった。自身の代わりに、北海道探査の経験をもつ島を、ナンバー3の首席開拓使判官に就かせた。島は、開拓の新たな根拠地(本府)建設の特命を受けた。

 直正は、赴任直前の島の自宅を訪れ、夜更けまで酒を酌み交わした。

 「上(かみ)(明治天皇)は蝦夷地について『一日たりともなおざりにできない』と仰せだ。開拓は国の命運を左右する。しっかり勤めるように」

 直々の激励に、島は感動した。

 それだけではない。北海道を行く島は、大きな黒塗りの唐櫃を背負っていた。開拓の成功を祈り、明治天皇が直々に授けた三面の神鏡が入っていた。

 氷の海でわが身が朽ち果てようとも、この任務は必ずやり遂げる-。島は固く決意していた。

 ◆碁盤の目

 北海道は危地にあった。

 幕末、プロイセンの貿易商、リヒャルト・ガルトネルは函館近郊の300万坪の土地について、99年間の租借権を得た。戊辰戦争中には、会津・庄内両藩がプロイセン政府と、資金援助と引き換えに、99年間の蝦夷地土地租借権を与える交渉を、進めたこともある。

 函館付近の租借権は、明治政府が賠償金を支払い、契約を解除した。だが、南下するロシアもいる。

 列強に対応するには、北海道南端の函館ではなく、中央に近い札幌に拠点を築く必要がある-。島らはそう考えた。

 当時の札幌は、人口20人足らずの低湿地だったが、悠々と川が流れ、かなたまで平原が広がる。

 「本府をここに置けば、世界一の都になるだろう」。島は、京都を模した碁盤の目状の大都市を築く夢を描いた。図面も引いた。

 だが、横やりが入る。

 兵部省の現地責任者、井上弥吉が、開拓使への協力を拒否した。

 兵部省は、この地へ会津藩士らの入植計画を立てていた。その予定地を、開拓使に譲渡させられた。さらに幕末の遺恨もあった。

 井上は兵部省の主流を占める長州藩士だった。

 長州藩は倒幕までに、多くの血を流した。それだけに、強大な軍事力を持ちながら、最後まで中立を保とうとした佐賀藩を嫌う人間が多かった。

 開拓使の物資荷揚げや、食料供給は遅れた。開拓使の一行は、蔵で掃き集めた土まみれの米を食べた。予算も底を突いた。

 島は右大臣の三条実美に兵部省との交渉や、予算増額を求めた。この行動に、直正の次の開拓使長官になっていた東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)は、へそを曲げた。

 「大風呂敷を広げたあげく、頭越しに金の無心とは、何様のつもりだ」

 明治3年2月、島が上京する代わりに、開拓使に予算が出ることになった。事実上の解任だった。

 骨を埋める覚悟が、たった4カ月で立ち去る。胸中は無念でいっぱいだった。

 島が北海道を離れて半年後、東久世は初めて札幌を視察し、驚いた。

 現在の大通公園を中心に、北側を官庁街、南側を商業地とする巨大都市の建設が進んでいた。

 「できばえ、規模も広大で、称賛されるものである」。東久世は日記にこう書いた。

 島は明治7(1874)年2月、佐賀の乱の首謀者の一人として、処刑された。身は滅びても、札幌に巨大都市をつくるという夢は花咲いた。

 札幌の人々は、街の礎を築いた島を慕い、中心部に桜を植えた。今は1400本まで増えた。今年も4月末ごろに、咲き始める。

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 この連載は中村雅和が担当しました。「維新伝心」は随時掲載します。