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【今こそ知りたい幕末明治】(9)志士も食べた名物・梅ヶ枝餅 竹川克幸氏 

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【今こそ知りたい幕末明治】
(9)志士も食べた名物・梅ヶ枝餅 竹川克幸氏 

松屋(右手前)などが立ち並ぶかつての大町旅館街=福岡県太宰府市 松屋(右手前)などが立ち並ぶかつての大町旅館街=福岡県太宰府市

 西鉄太宰府駅前から歩いてすぐ、太宰府天満宮の門前町、大町旅館街がある。江戸時代、天神様菅原道真公の聖地である太宰府天満宮(安楽寺天満宮)への参詣、いわゆる「さいふまいり」に訪れた旅人で、たいへんにぎわったと伝わる。この場所は、幕末の志士が国事周旋(しゅうせん)で奔走した場所であり、地元にも勤王の志にあふれる志士がいた。

 かつて大町旅館街には、各藩や幕府の定宿があった。薩摩藩の「松屋」、長州藩の「大野屋」、幕府の「日田屋」だ。そのほかにも、「和泉屋(泉屋)」や「大和屋」など旅館が立ち並んでいたという。

 和泉屋は今では、銘菓「宝満山」などで良く知られる菓子店、梅園となっている。この和泉屋について、中岡慎太郎の日記(尾崎卓爾『中岡慎太郎先生』)によれば、慶応元(1865)年3月9日に「対人(対馬人) 筑(前)人 薩人等と泉屋にて出会」や慶応3年2月27日に「大山(格之助、薩摩藩士)、吉田(清右衛門、同)及び、肥(後)藩古賀富次、(清岡)公張等と白水樓(泉屋か)に別酌」などの表記がある。志士の滞在先であり、会合や宴会、交流の場所として使用されていたようである。

 現在は梅ヶ枝餅と土産物を売る「維新の庵松屋」となった松屋・栗原家は、先祖の栗原孫兵衛(順平)が勤王の志士であった。孫兵衛は雅号を松籟堂と号し、「状奇偉」つまり並外れて立派な人物であった。義侠心に厚く、太宰府延寿王院に滞在した五卿への協力や、志士の国事周旋に協力する地元の世話役であった。安政5(1858)年、天満宮別当の大鳥居信全ら筑前の国学・勤王派や下関の豪商、白石正一郎らと一緒に、菅公の精神学識を伝える「和魂漢才の碑」の建立、寄進にも尽力した。松屋には、五卿らが世話になった謝意を記した「英華帖」や、西郷隆盛や大久保利通、平野国臣、お由羅騒動に連座し、薩摩藩を脱藩後に筑前福岡藩に亡命潜伏した北条右門(村山松根)ら、幕末志士の書簡や和歌など関係資料や逸話が残る。

 特に、西郷隆盛と錦江湾に入水したことで知られる勤皇志士で清水寺の僧、月照を匿(かくま)った逸話は有名である。月照は、安政5(1858)年10月、西郷隆盛や平野国臣、北条右門、葛城彦一ら同志を頼って、薩摩下りの途中、博多の高橋屋正助らを通じて松屋に宿泊した。月照は孫兵衛の計らいで太宰府見物や宝満山の紅葉見物に出かけ、つかの間の休息を楽しんだ。

 月照を匿った味噌醤油蔵の跡でもある松屋の庭園には、月照が一宿一飯のお礼に送った和歌にちなむ歌碑が建立されている。

 言の葉の花をあるじに旅寝するこの松かげは千代もわずれじ

 孫兵衛の心づくしのおもてなしや温情に対する、感謝の気持ちにあふれる心に染みる一首である。

 栗原孫兵衛は加藤司書や月形洗蔵ら筑前勤王党が壊滅に追い込まれた、慶応元年の「乙丑の変」で獄舎につながれた。同4(1868)年2月に赦免され、明治13(1880)年1月に64歳でその生涯を閉じた。明治44年に生前の功績により、従五位の贈位を受けた。栗原孫兵衛の事蹟が刻まれた墓碑が、西鉄太宰府駅付近の光蓮寺境内の鐘楼付近に残る。その横には、元土佐藩士で五卿に随行しながら太宰府で結核の病にかかり、志半ばで自刃した山本忠亮の墓碑もある。志半ばで斃(たお)れる草莽の志士の方が多かった。

 太宰府には、新時代への夢や希望、熱い想いを抱きつつ、国事周旋に奔走した志士が集った。それを地元の志士が支えた。志士も食べた名物梅ヶ枝餅を味わいながら、太宰府のまちをぜひ散策していただきたい。

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【プロフィル】竹川克幸

 たけがわ・かつゆき 昭和48年、福岡県飯塚市生まれ。鹿児島大、同大学院修士課程、九州大大学院博士課程などを経て、平成28年から日本経済大学経済学科専任講師。専門は日本近世史と九州の郷土史。特に幕末の太宰府と五卿の西遷、志士の国事周旋の旅などを調査研究。著書(共編著)に「アクロス福岡文化誌9福岡県の幕末維新」(海鳥社)など。

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