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飛鳥寺西方遺跡、建物跡は“宮殿クラス” 「遺構は推定エリア内に広がる」 奈良

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飛鳥寺西方遺跡、建物跡は“宮殿クラス” 「遺構は推定エリア内に広がる」 奈良

 ■東西方向の石組み溝も出土

 10年計画(平成29年度まで)の発掘調査で今年2月、初めて本格的な飛鳥時代の建物跡が見つかった明日香村の飛鳥寺西方遺跡(7世紀)。建物跡の柱間(はしらま)(柱と柱の距離)は宮殿クラスの規模で、楼閣や門跡などが考えられるという。現場は遺跡推定エリアの南限付近。村教委は「これまでの調査で推定エリア内に遺構が広がることが確認できた」としている。

 同遺跡は飛鳥寺の西に広がり、日本書紀にたびたび登場する「槻(つき)の木の広場」跡とされ、村教委による調査は20年度から始まった。肝心の「槻の木」(ケヤキ)の遺構はまだ見つかっていないが、広場に伴う石敷き遺構や排水用の石組み溝などが出土。2月の調査では遺跡の南限付近で、建物内部の床の部分まで柱を配置する総柱(そうばしら)形式の建物跡(東西11メートル、南北6・5メートル以上)が見つかった。

 同遺跡で飛鳥時代の本格的な建物跡が出土したのは今回が初めて。柱間は東西が3・6メートル、南北が3・3メートルと長く、柱を埋めるために掘られた穴の一辺は約1・2メートル、深さは約90センチもあった。建物遺構に取り付く形で東西方向の石組み溝も見つかった。

 この遺構について三重大学の小澤毅教授は「全体像がつかめていないのではっきりとはわからないが、楼閣(ろうかく)や倉庫、門跡などが考えられる。柱間は11尺(33センチ)あり、飛鳥の宮殿正殿にみられる規模だ」と注目している。

 日本書紀によれば、槻の木の広場は644年に、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足が蹴鞠の際に初めて出会った場所とされ、乙巳(いっし)の変(645年)直後には天皇、皇太子、群臣らが集まり、槻の木の下で盟約をかわしている。また、中央の勢力が及んでいなかった南九州や東北の人たちを招いた供宴が行われるなど、極めて重要な場所だった。

 遺跡の推定エリアは東西約120メートル、南北約200メートル。今回の調査地の東側を発掘した23年度の調査でも、今回の石組み溝に連なる部分が見つかっており、総延長は75メートル以上。村教委の長谷川透技師は「一連の調査を通じて、遺跡の推定範囲内に、飛鳥時代の遺構が存在することが確認できた」としている。調査最終の来年度は、今回の調査地の北東側を発掘調査する予定だ。

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 村教委は18日午後1時から村中央公民館大ホールで、飛鳥寺西方遺跡や御園遺跡群についての調査報告会を開催する。無料。問い合わせは文化財課(電)0744・54・5600。