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【維新伝心150年】肥前佐賀藩 鍋島直正(中) 技術革新で日本を守る

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【維新伝心150年】
肥前佐賀藩 鍋島直正(中) 技術革新で日本を守る

 第10代肥前佐賀藩主、鍋島直正(1815~1871)は藩政改革と並行し、西洋の科学技術を次々に導入した。日本に手を伸ばす西洋列強と肩を並べ、侵略の脅威をはね返す目的で、全国から優秀な人材をスカウトし、佐賀藩をイノベーション(技術革新)に満ちた組織に変貌させた。この技術が生み出した武力が、戊辰戦争を比較的にしろ短期終結に導いた。

 天保元(1830)年、藩主となった直正は、長崎に向かった。港に停泊中のオランダ船に、自ら乗り込むことを希望した。

 直正は教育係、古賀穀堂(こくどう)(1778~1836)から、何事も書物だけでなく、経験して考えるよう叩(たた)き込まれた。目の前のオランダ船は西洋を知る絶好の教材だ。

 藩士は前例がないと、押しとどめようとした。

 「実際に乗らねば、どのようなものか分からぬだろう。お前たちが何と言おうと乗るぞ!」

 頑丈な船体と大砲、訓練された船員。西洋科学技術のすさまじさを目の当たりにした。幕末、稼働する西洋船に乗った大名は、直正が初めてだった。

 驚いた直正だが、絶望はしなかった。「これなら追いつける。いや、追いつかなければならない」

 行革や産業振興など藩財政の立て直しに着手した。

 中でも農業振興に力を入れた。離農者を防ぐために戸籍を整え、農村を再編した。さらに小作農家の救済を目指した。

 当時、小作農家の多くは、年貢米と地主への小作料を払うため、米作りを後回しにして、現金化できる商品作物を栽培したり、日雇い労働に励んでいた。

 「今後10年間、小作料は払わなくて良い」

 天保13(1842)年、直正は指示を出した。地主制度の事実上の否定であった。100年後の連合国軍総司令部(GHQ)による「農地改革」の先取りだったといえる。

 有明海の干拓などで新田開発も進めた。公称35万石の佐賀藩の石高は、67万石に増加した。

 ■大砲の鋳造

 こうして生まれた財源を、直正は技術開発につぎ込む。

 この頃、清がアヘン戦争(1840~1842)でイギリスに敗れたという知らせが入った。英国軍艦に長崎港侵入を許した「フェートン号事件」の悪夢が蘇った。

 直正は長崎港の防衛強化に取り組んだ。湾口部の伊王島と神ノ島を結ぶ防衛ラインを設定し、2島に計100門の大砲を設置するプランを幕府に献策した。

 莫(ばく)大(だい)な予算に幕府は尻込みした。業を煮やした直正は嘉永3(1850)年、藩単独で事業を行うと決断した。

 2島は佐賀藩の領地である。自領の防衛を強化することに、問題はなかろう。

 直正は、従来の青銅製ではなく、鉄製大砲の鋳造を決意する。しかも、自主開発にこだわった。

 手っ取り早く輸入もした。しかし、それだけでは技術の蓄積にならない。

 開発命令が、火器研究の拠点「火術方(かじゅつかた)」に下った。

 オランダ書「ゲシキュットギーテレイ(大砲製造法)」を頼りに、まずは丈夫な鉄を作るための反射炉建造に取り組んだ。

 佐賀は陶磁器作りが盛んで、窯を作る基礎技術はあった。これも応用し「築地(ついじ)反射炉」を建設した。

 鉄作り、大砲作りは難航した。

 藩内の学者、鋳工、刀鍛冶らを総動員したが、最初は炉で鉄を溶かすことも、できなかった。材料の鉄ができた後も、砲身の破裂など失敗を繰り返した。

 嘉永5(1852)年7月。14回目の試作で、ようやく満足のいく製品が完成した。新兵器は2島の台場に据え付けられた。

 翌年、「黒船」を率いたペリーが浦賀沖に現れた。対応を迫られた幕府の老中首座、阿部正弘は佐賀藩に尋ねた。

 「鉄製大砲200門の至急納入は可能か」

 この時点で、反射炉・大砲製作の実用化に成功していたのは佐賀藩だけだった。幕府は直正を頼るしかなかった。

 佐賀藩で作った大砲が、品川砲台に設置された。

 直正は藩外の技術者も活用した。なかでも久留米藩出身の田中久重(ひさしげ)(1799~1881)が果たした役割は大きい。

 久重は「からくり儀右衛門(ぎえもん)」の異名を持ち、後の東芝の創立者でもある。

 幼いころから仕掛け作りに才能を見せた。からくり人形にとどまらず、1年間動き続けるゼンマイ時計「万年自鳴鐘」も製作した。久重は佐賀藩の理化学研究所「精煉(せいれん)方」に登用された。

 「蒸気機関を作ってもらいたい。からくりも蒸気機関も、細工であることは変わらないだろう?」

 直正は、久重の技術者としてのプライドをくすぐった。

 「人間の頭にひとたび浮かんだ思いつきは、必ず実現できます」

 こう応じた久重らは蒸気機関の国産化に成功した。慶応元(1865)年、国内初の蒸気船「凌風丸」を完成させる。

 世界最先端だったアームストロング砲の自作にも成功し、軍政改革では銃火器の充実を図った。佐賀藩は、技術力と軍事力を持つ雄藩に生まれ変わった。

 ただ、直正は武力による倒幕には否定的だった。

 ■議会制度

 経験を重視する直正は、リアリストだった。

 列強との関係では、欧米の進んだ点を認め、技術を導入し、外国に対抗する力を整備しようと考えた。やみくもな攘夷には反対だった。

 直正が目指した新体制はどんなものだったのか。

 大政奉還が間近に迫った慶応3(1867)年6月、側近にこう語ったと記録されている。

 「天皇の御親政とはまことに公正の美事なれど、公家達に政治はおぼつかない。外国人と交渉して、政務に当たることは難しい」「かといって幕府も同然だ。今の政局を何とかできる人材はおらず、浅薄な小策を弄(ろう)するのみだ」「西洋諸国は皆議会を設けて、人民から選出した議員の決議で法律をつくっている。誠に良き政体だ」

 穏健な改革派の考えが、にじむ。

 何より、いかに西洋列強へ対抗するかを考え続けてきた直正にとって、内戦ほどばかばかしいことは、なかっただろう。佐賀藩が作り上げた大砲を、日本人に向けるつもりなどなかった。佐賀藩は中立を守った。

 だが時流は直正の思いを裏切る。戊辰戦争が勃発した。

 直正はついに、新政府軍に加わることを決めた。

 「戦が始まった以上、圧倒的な兵力で一刻も早く終結するしかない」

 こう考えたのだろう。薩長をも上回る兵力と最新鋭の火器を投入した。

 佐賀藩の火器は上野寛永寺に立てこもった彰義隊や、会津・鶴ヶ城の攻略に威力を発揮した。

 勝報に直正が何と言ったかは伝えられていない。

 技術革新によって日本を守る-。直正の目は、北海道にも向いていた。