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【維新伝心150年】肥前佐賀藩 鍋島直正(上) 近代日本のひな型は佐賀に

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【維新伝心150年】
肥前佐賀藩 鍋島直正(上) 近代日本のひな型は佐賀に

 近代国家・日本のひな型は、佐賀にあった。幕末の日本で、近代化にもっとも成功したのは肥前佐賀藩だった。10代藩主の鍋島直正(1815~1871)は、「富国強兵」「殖産興業」だけでなく、さきの大戦後の農地改革を先取りするかのような政策まで実行した。この開明的な名君を育てたのは、儒学者の古賀穀堂(こくどう)(1778~1836)だった。

 文化5(1808)年、1隻の帆船が、佐賀藩の運命を大きく変えた。「フェートン号事件」だ。

 イギリス軍艦フェートン号はオランダ船を偽装し、長崎にやってきた。

 当時オランダは、フランス皇帝ナポレオンの統治下にあり、英国侵攻の拠点となっていた。英蘭両国はいわば戦争状態にあった。

 フェートン号の乗組員は、オランダ商館員をだまして人質に取ると、日本側に薪や食料を要求した。

 長崎港の警備は佐賀藩と福岡藩が交代で担当することになっていた。この年は佐賀藩が担当だった。

 だが、経費節約のため、大半の兵を引いており、英国側の要求を呑むしかなかった。大失態だった。

 幕府の出先機関である長崎奉行の松平康英は切腹、9代目佐賀藩主、鍋島斉直(なりなお)(1780~1839)も謹慎処分を受ける。

 事件後、猛省する藩士がいた。藩校「弘道館」の教授、古賀穀堂だった。

 自分がこれまで学び、教えてきた学問は、異国に対し全くの無力だった-。列強の現実的な脅威に、「人の道」を説く儒学では、対抗できなかった。

 「儒学だけでなく、西洋の学問を導入しなければならない。西洋は文物、政治制度、経済などあらゆる分野で先行している」

 文化6(1809)年、穀堂は、こう書いた提言書「学政管見」を提出した。

 斉直には、改革を断行する覚悟はなかった。見たくない現実を前に、贅沢な暮らしに逃げた。

 それでも心に引っかかっていたのだろう。文政2(1819)年、跡継ぎであり、江戸に住む直正の教育係を穀堂に命じた。

 後継者を託すという思いと同時に、何かと煙たい穀堂を遠ざける狙いもあっただろう。

 父の思いはどうあれ、穀堂との出会いは、直正を大きく成長させた。

 「講釈を聞くよりも、問答することこそ、重要だ。書物で得た知識を、現実と照らし合わせて比較し、相違点を検討してはじめて、知識として身につくのだ」

 穀堂は、考えさせることを重視した。フェートン号事件をしばしば教材に取り上げた。

 あのような失態を二度と繰り返さないためには、藩主はどう対処することが必要か。西洋でなぜ科学技術が発展したのか-。

 押し付けではなく、直正の中で答えが育つのを待った。直正は穀堂の期待通りに成長した。

 「大人でも及ばないような議論ができ、『藩のためには死んでも構わない』とまでおっしゃるほどだ。素晴らしい主になられるに違いない」

 穀堂は友人に宛てた手紙で絶賛した。

 直正を支える人材を育てようと、若手藩士の教育機関として明善堂を江戸に設立した。

 2人の関係は、古代ギリシャのアレクサンドロス大王と、その家庭教師だった哲学者アリストテレスに似ている。アリストテレスは、後の大王の基礎を固めた。また、新たにつくった学校で大王とともに、彼の重臣となる貴族階級の子弟を教えた。

 ■強烈な弾劾

 天保元(1830)年、直正は第10代藩主となる。生まれて初めて佐賀に入ろうとしたが、出はなをくじかれる。

 江戸から佐賀への最初の宿場、品川で行列が動こうとしなかった。

 「なぜ出発しないのか。日が暮れてしまう」。いらだつ直正に側近が事情を打ち明けた。藩邸出入の商人が、代替わりを好機にと、これまでのツケの支払いを求めて押し寄せたのだ。

 直正は11代将軍、徳川家斉の娘を正室に迎えた。莫大な婚礼費用に加え、父・斉直の贅沢な生活、2年前の台風災害などで、藩財政は火の車だった。

 何とかたどり着いた地元でも、難題が直正を待っていた。隠居した父が実権を手放さなかった。家臣も斉直の顔色をうかがった。

 穀堂は、孤立する直正の背中を押した。

 天保2(1831)年、政策提言書「済急封事」を直正に出した。人材登用や学問・産業の振興といった政策メニューに加え、藩内の風潮を批判した。

 「上下を問わず、遊惰(ゆうだ)、奢侈(しゃし)、嫉妬、優柔不断の憂うべき風紀が支配している。武士道を説いた『葉隠』を絶対視し、他の学問を軽視することが問題だ」

 斉直派への強烈な弾劾だった。穀堂は若いときから病がちで、このころ視力も極端に落ちていた。文章には必死の思いが詰まっていた。

 師の姿を見ながら、直正は、ある事件を最大限に活用する。

 ■行革と人材育成

 天保6(1835)年、佐賀城で火災が発生し、二の丸が焼失した。100年ほど前に、本丸が焼失し、二の丸が藩政の中心となっていた。

 直正は、本丸を再建すると打ち出した。権力移行の象徴にしようという考えだった。費用は妻、盛姫の斡旋で幕府から借りた。

 目論見は当たった。直正はビッグプロジェクトを成功させたことで、名実共に藩主となった。

 ただ、本丸再建の工事が進む天保7年、穀堂は病に伏せた。

 直正は、穀堂を自宅に見舞った。藩主が臣下の家を訪ねることは異例だ。1週間後、穀堂は亡くなった。

 「先生との交わりは、父子のように親密なもので、百年先まで続くかのようだった」。直正は嘆いた。

 2人が最後に交わした言葉は、分からない。ただ、直正の藩政をみれば、生前はもちろん、穀堂死後もその教えと二人三脚だったことが分かる。

 どうすればフェートン号事件の雪辱を果たせるか-。2人で何度も問答した。結論は「西洋に勝つには、西洋の進んだ技術を導入しなければならない」。それには行革と人材育成が欠かせなかった。精神論では二の舞だ。

 直正は徹底した行革に踏み切った。藩の全役人の3割にあたる420人を役目から外した。彼らには生活保障としての禄米は継続したが、「役米」は支給されなくなる。

 人材登用では、実力主義を貫いた。

 藩校・弘道館で規定のカリキュラムを修了しない場合は、家禄を一部削減し、藩の役職に登用しない制度を決めた。

 こうして財源と人材を確保し、直正は富国強兵に突き進む。